KOTOBAYA 雑記帳

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深い喜び、深い悲しみ 22:55
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    これ、去年から流れているスパリゾートハワイアンズのテレビCMなんだけど、めちゃくちゃ好きなんだ。ローカル感たっぷりだけど、待ちきれないワクワク感が伝わってくる。家の中で水着になんかなっちゃって、浮き輪なんか準備しちゃって、「早く行きたーい!!」って気持ちがビンビンしてるよね。こりゃ連れていかなきゃでしょ。

    こんなふうに、心の奥底から湧きあがるようにうれしかったり楽しかったりする感じ、もう、忘れちゃったな。年を重ねていくうちに、もっと深い喜びも、もっともっと深い悲しみも経験しているはずなのに、いつだって、すぐに「それでどうするか」を考えなければならなくて、じっくりと喜びや悲しみにくれる時間さえもなくしていたような気がする。

    それでもね、とりたてて立派な本を読まなくても、英会話教室に通わなくても、高いお金を払ってコンサートに行かなくても、ただ生きているだけで人生から教わることがたくさんある。毎日起きる日々の出来事になんだかんだと対処しているうちに、結構いい大人になっているものだ。それは、若いうちには分かりようのない人生の機微というものなのかも。

    どういうんだろう。しょせん努力で解決できることなんて大したことじゃない。私がすぐれた人物だから日本に生まれたわけではないし、私が人格者だからコンビニでお弁当が買えるわけでもないんだものね。自分にできることといったら、せいぜい、ちょっとはマシな人間でいようと心がけることくらいだ。与えられた毎日を過ごすことが宿題で、人生の最後に、あなたは人生からどんなことを学んだの? と問いかけられる、それが生きるってことなのかも。もしかしたらあの世では、それぞれの生涯検討会なるものが行われていたりして。
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    今だったんだ。 15:06
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      普通だったら親しく言葉を交わすことさえはばかられる大先生にひょんなきっかけでお世話になってこんな言葉を贈っていただいた。休むことなくやってくる日々の難題に辟易としていたときのこと。科学者として高名な某先生からいただいたのは、なんと旧約聖書伝道者の書3章でした。しっかり心に留めておきたいと思います。


      天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
      生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
      植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
      殺すのに時があり、いやすのに時がある。
      くずすのに時があり、建てるのに時がある。
      泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
      嘆くのに時があり、語るのに時がある。
      石を投げるのに時があり、石を集めるのに時がある。
      抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
      捜すのに時があり、失うのに時がある。
      保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
      引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
      黙っているのに時があり、話しをするのに時がある。
      愛するのに時があり、憎むのに時がある。
      戦うのに時があり、和睦するに時がある。


      今起こっていることは近すぎて人生のどういう点になっているのかわからないけれど、いつか高いところから全体を見下ろしたら巨大壁画の重要な1つのパーツになっているのかな。それがだんだんわかってくるまでにはもうちょっと時間がかかりそうだけど、今起こったということは、今が起こる時期だった、起こるべくして起こったってことなんだね。



       
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      わたしの「N」、あなたの「N」 01:33
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        「Nのために」ってドラマが気になっている。まだ途中なので合点がいかないことばかりだけど、ひどく哀しく切ないドラマだ。

        みんなそれぞれに大切な「N」のために力を尽くすってお話なんだけど、それが本当に「N」が望んでいたかってことになると、残念ながら少し違ってしまう。先走りすぎというか、思い込み違いなところがひたすら哀れだけど、自分のためには頑張れないことも、だれかのためだと不思議と強くなれるんだよね。

        原作者の湊かなえさんが「幸せが自分のことであるうちはたいした人生ではない」って言ってたけど、ほんとだね。「幸せになりた〜い」なんて言ってるようじゃ、まだまだお子ちゃまってことだ。その意味じゃ、守るべきものを持つことができた人は幸いなのかもしれない。「幸い」と「幸せ」は似てるけど、まったく違うものなのかも。

        よく、私たちは神様と取り引きするよね。「○○を頑張るから△△しますように」とか、「私はどうなってもいいから、○○が△△できますように」とか。一方的な幸運はあり得ないとどこかで観念してるんだ。お百度参りやお茶断ちは、自分に困難を課すことで願いをかなえようとする行為だよね。そうやってだれかが背負っている「苦」を、形をかえて自分が引き受けようとしている。引き受けることができないとしても、共有するってことかな。

        大切なだれかのために自分ができることがあるなら、それが自分にとっての幸いだと思えてしまうんだから、人間てやつはつくづく不思議だね。おやおや〜、自分が幸せになることはさほど大切じゃないって考えてみたら、すんごく気持ちが軽くなってきたぞ。しめしめ。幸せという呪縛から解放されたかな。

         
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        孤独死じゃなくて孤高死と呼ぼう 07:50
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          余命も残すところあと50年ほどになり(笑)、クオリティ・オブ・デスの考え方の普及とあいまって、私も自分の死に方のことを考えるようになってきた。これからは医療と介護の境目がなくなって、治療しない看取りの医療が主流になっていくんだろうな。お医者さんも、苦痛なく日々を過ごすお手伝いに役割が変わるだろうし、病気を持ちながらも何とか折り合いをつけ、自分らしく最期まで生き切る時代がやってくるんだ。これまで、よく考えないでかたくなな医療を進めてきちゃったからね。ようやくってところかな。


          ひとりで死ぬことを「孤独死」といかいうけど、名前が悪いよ。たまたまそのときそばに誰もいなかっただけであって、その人の人生が孤独だったかどうかなんてわからないじゃん。どうせだったら「孤高死」とかにしてほしいよね。「孤独」だと手助けしてあげなくちゃならなくなるけど、「孤高」なら、死んで1週間ぐらい気づかなくても誰もごめんねって気にならなくて済むもの。私は最期まで孤高でいたい。


          私の場合、病気が見つかって治療しなければならなくなれば、それは仕事ができなくなることを意味している。仕事ができなくなれば収入がなくなる。収入がなくなれば生きていけない。だから、無駄に健診なんかせずに自然体で過ごしたい、それが私にとっていちばん合理的だとずっと考えてきたけれど、かたくなな医療を推進する人たちにはなかなか受け入れてもらえなかった。よしよし、ようやく私の考えに時代が追いついてきてきたぞ(てへっ!)

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          かわいそうと言わないで 07:11
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            風の噂で聞いたんだけど、小中学校の同級生のやんべよしみちゃん(仮名)が病気で亡くなったそうだ。時折、同い年で逝ってしまった人の話を耳にすると、まだまだこれからなのにとすごく残念な気持ちになる。


            ただ、よしみちゃんは別の意味で話題になっていたんだ。それは彼女が独身であったことと、ご両親は既に他界されていて、唯一の肉親であるお姉さんとは数年前から連絡が取れない状態になっていたということだ(聞いた話)。


            静かに息を引き取っても、肉親がいないために、市役所の人と隣近所のごくわずかな人たちが簡単な葬儀をして彼女を送ったそうだけれども、そのことを教えてくれた友達が、「かわいそう、かわいそう」と連発するんだよね。それはそうなんだけど………


            私はその話を聞いたとき、「よしみちゃん、偉かったね。最期まで一人で頑張ったんだね。立派だよ」って思った。それは、自分自身と彼女とをいつしか重ね合わせていたからだと思う。


            不安な気持ち、絶望的な時間を自分の胸だけにしまって、淡々と人生を全うした彼女のことを、かわいそうと言ってしまうのはあまりにも酷だ。私だったら「よく頑張ったね」って言ってほしい。一人がみじめなんてことはない。

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            このたび、自己投資をやめまして・・・ 06:12
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              4月の年度替わりを機に家の中を思い切って整理した。シンプルに逝くための老前整理と言いたいところだけれど、それにはちょいと気が早すぎる。そうそう、少し前に流行った「断捨離」というところだろうか。


              押し入れ一つを片づけるにも一苦労。またたくまにごみ袋がいっぱいになる。今となっては、どうしてこれが欲しかったのかさえわからない「モノ」たち。役に立たなかった子どもの学習教材の多さには笑えたけれど、子どもだけではなく、愚かなほど自己投資をしてきたことに自分でもあきれた。私はどんだけ自分に期待してたんだろう。


              大人になってから始めた英語教材や、急に勉強したくなって買った分厚い専門書、途中で挫折した通信教育の教材、なぜかドイツ語やイタリア語辞典まである。何よりもったいないのは、ほんの1回か2回しか着ないまま肥やしとなるしかなかった慶事用のパーティフォーマルかな。おめでたいこととか華やかな席なんて、ほとんど縁がないしね。


              大したことも成し遂げられずに「いい大人」になってしまった自分。こうしてみると、私が生きてきたこと自体がムダだったような罪悪感にさいなまされる。私という人間が一人いなかっただけでも、これだけのゴミが減らせたはずなのに。


              私がムダにしたのはそれだけではない。なんでも、ヒトが一生に食べる食べ物の量は約50トンだそうだ。重さだけでいえば、プールの水を一生かけて飲み干す感じかな。そんだけ食べても結果はご覧のとおり、残念な人間が一人できあがっただけだった(まだ途中だけどね)。犠牲になってくれた豚さんや鶏さんやお魚さん、ほんと、ごめんね。もっと私がマシな人物になっていたなら、あなたたちの犠牲も報われただろうにね。


              これからは、持っている本を読み返し、着古した服を繰り返し着て、自然が奏でる音楽を楽しむことにしよう。そして、少しのご飯を大切にいただくことにしようっと。いくら自己投資しても、このままじゃどう考えても元本割れしそうだもんね。

               

               

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              いつも誰かは誰かより弱い虫 01:09
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                泣けた。しっかり泣けた。――誰かが不幸になったからといって、自分が幸せになれるわけじゃないのに、人はみんな、自分より弱い立場の人を上手に探しては攻撃の対象にしようとする。弱い虫として生きていくことを強いているのは周囲の目なんだね。本当のことを言えば世の中はわかってくれるなんて、うそっぱちなんだね。

                同じものを見ていても、隣の人とは全く別のものに見えているとしたら、どうやってわかり合えばいいんだろう。本当のことって、いったいどこにあるんだろう。そもそも、決して誰のことも悪者にしないで生きられる強さなんて、どうみても私の中に見当たらないのがひたすら悲しい。



                パラパラ漫画を描いたのは鉄拳さんだ。たしか、スケッチブック片手に「こんな○○はいやだ」といっては笑わせてくれたよしもとの芸人さんだよね。パラパラ漫画で描くからこその味わいがあって、ほんと、ぐっとくる。はじめは、どうして「有罪」にしたのか理不尽すぎる気がしたけれど、きっと私たちに、「こんな世の中はいやだ」と訴えたかったんだろうね。

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                カリギュラ効果か自傷行為か 04:38
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                  浦島太郎はどうして玉手箱を開けちゃったんだろう。鶴を女房に迎えた男は、どうして機織りの部屋を覗いちゃったんだろう。禁止されると、かえってやりたくなる心理のことを「カリギュラ効果」というのだそうだけれど、それは、好奇心がくすぐられるって意味だよね。


                  それとはちょっと違って、玉手箱を開けたらよくないことが起こりますよ、機織りの部屋を覗いたら取り返しのつかないことになりますよ、ということがわかっていても、やっぱり私たちは同じことをしてしまう。こんな言葉があるかどうかわからないけど、いわば「破壊的安定欲求」的なやつ。いわゆる自傷行為だね。


                  よく子どもなんかでも、積み木でつくったお城が完成する寸前で、わざと自分で壊しちゃったりすることあるよね。きっと、完成して目標が喪失するのが怖いんだろうね。かさぶただって、乾いてくると決まってはがしたくなる。癒えることがもったいないんだ。


                  「破壊」は、それ以上壊れることがないという意味で最高に安定している。でも、いつだって自分自身を傷つける。それじゃ、どうすればいいんだろう。


                  やっぱり、玉手箱の存在自体を忘れてしまうに限るね。気を紛らわすってやつ。それで人は、お酒を飲んだり、カラオケに行ったりするんだね。私も、仕事の後の発泡酒(ロング缶)なしじゃ生きていけないもの。忙しい人にはこっちがお勧めだ。


                  もう一つある。それは、毎日玉手箱を目の前に置いて、眉間にしわを寄せながら、開けないことの意味とか、開けた結果の予測を、しゃちこばって考え続けることだ。いずれ開けてしまうにしても、これでかなりの時間稼ぎになる。やっかいな玉手箱の存在が、私たちを無理やり成長させてくれるんだ。


                  鶴を女房にした男も、甘い汁を吸いながら、何かしっくりこないものを感じていたんじゃないのかな。自分が主役じゃないものね。ほっぺたをつねってみたら夢から覚めちゃったわけだけど、鶴とずっと一緒にいるよりも学びの多い豊かな人生だったに違いない。彼にだって傷ついてうちのめされる権利くらいあったはずだもの。

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                  親は最大の環境だ 10:09
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                    NHK大河ドラマの「平清盛」、見たいのにちっとも見る時間がないけど、私がこのドラマに興味を持ったのは、内容よりも、むしろ題字を書いた女の子のほうだった。


                    金澤翔子さんはすばらしい書家だ。書のことなんかこれっぽっちもわからない私だけど、彼女の作品に自然と心がきゅんとなる。「ダウン症の書家」として紹介されることが多いけれども、作品のすばらしさは、仮に彼女が健常者であっても揺るがないだろう。でも、もしも人と競うことなく天真爛漫に生きることが健常者には難しいのであれば、その意味では、彼女がダウン症であったからこそ生まれた作品なのかもしれない。


                    金澤翔子の世界
                    http://noritake777.jp/kanazawa/shouko-index.html

                    「月光」「如来」「飛天」……、ああ、なんという感動☆


                    彼女のお母さんもまた書家である。こう考えると、親とは子にとって最大の環境であるとつくづく思う。ロンドンオリンピックのメダリストをとってみても、親御さんが選手や指導者であった人の何と多いことか。レスリングの吉田沙保里さんはじめ、体操の内村航平くんや田中きょうだい、卓球の石川佳純さん、フェンシングの太田雄貴さん、千田健太さん、重量挙げの三宅宏実さん、ハンマー投げの室伏広治さん、ほかにもいっぱいいっぱい。


                    改めて、親の影響が子に及ぼすものの大きさに、ただおそれをなすばかりだ。これってかなり怖いよね。そこで、「ごめんね、こんな親で」と謝ってみると、「いいよ、いいよ。まあまあな線いってるから大丈夫」との反応。これって喜んでいいんだよね?


                    ただ、金澤翔子さんのお母さんは、自分の子どもがダウン症だということが受け入れられずに、最初のうちは毎日死ぬことばかり考えていたと語っていたよね。ダウン症の宣告は絶望であったと。その言葉は重い。きれい事なんかじゃ済まされない葛藤がきっとあったんだろうね。新型の出生前診断のことが話題になっているけれど、私はそれをどう考えたらいいのかわからない。ただわかるのは、翔子さんの書がすばらしいということだけだ。

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                    我流解釈『100万回生きたねこ』 10:15
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                      『100万回生きたねこ』は、人を愛するすばらしさとか命の大切さを教えている大人のための絵本だ、みたいな書評をよく目にする。確かに買ったときは私もそう思ったよ。あれからかなり年月が過ぎて、その間にこの絵本は人々の間に広く浸透していった。いま、あらためて読み返してみると、若かったころとはちょっと違った感想になっていることに自分でも驚く。これは、私自身がねこと同じように、何回も死んで、何回も生きたからなんだろうか。


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                      まず、100万回という数字だけど、これは特別な意味があるわけじゃなく、象徴的な数字だ。つまりは「何回も何回も生きた」ということがわかればいいわけで、「ちびくろサンボはホットケーキを169枚食べました」と同じように、それが本当かどうかなんてどうてもいいんだ。


                      実際、絵本に書いてあるのを取り上げる限りでは、ねこが死んだのは6回、いや7回だね。


                      1 王さまのねこ     →  矢に当たって戦死
                      2 船のりのねこ     →  船から落ちて水死
                      3 サーカスのねこ    →  手品つかいによる過失殺人(殺猫)
                      4 どろぼうのねこ    →  犬にかみころされる事故死(労災)
                      5 おばあさんのねこ   →  老衰
                      6 女の子のねこ     →  おぶいひもがまきついて窒息死

                      7 誰のねこでもないねこ →  原因不明

                       

                      このねこは、何回生きてもあんまり幸せじゃなかったわけだけど、考えようによったら、ねこのたどった道は自分自身のこと、もしくは一人一人の人間の人生ともとらえられる。そうすると、死んだというのも象徴的な意味で、死ぬほど大変な出来事に何回も遭遇したってことになるね。確かに誰しも人生において6回くらいは(いや、もっともっと何回も)危機的な状況に陥ることがあるもの。


                      海に遊びに行って波にさらわれそうになったり……
                      受験に失敗して失意のどん底に落ちてしまったり……
                      自動車運転中に、子どもが飛び出してきて急ブレーキをかけたり……
                      恋人にふられて自暴自棄になったり……
                      信頼していた人に裏切られて借金を背負ったり……
                      自分のミスのせいで会社が大きな損失を出してしまったり……


                      ほうら、誰でも人生に何回かはゆうに死んでるんだ。それでも命が続いているから、いや応なしにあしたを生きる、ただ、その繰り返しなんだ。「ねこ」は、別に好きで生きたんじゃなくて、生まれてきたから生きていたんだよ。100万人の人(=たくさんの人)にかわいがられている(=支えられている)ことにも気づかずに、ただふてくされながら。


                      ところが、白いねこの出現でそんな毎日が一変してしまう。自分より大切に思える人(ねこ)ができたとたん、いつ終わりになっても全然平気だと思っていた命に執着心が出てくる。ねこは初めて、いつまでも生きていたいと思うようになるんだ。私たちだって、若いときは「そんなに長生きしなくてもいい」なんてうそぶいているけれど、かけがえのないものが見つかると、ずっとずっと生きていたいと思うものね。


                      しかし、命あるものはみんな死を迎える。大切なものを失った悲しみは誰だってつらく悲しい。でも、もうねこは、自分の身に降りかかってきた困難を無理に乗り越えなくていいほど十分に生きていたんだ。だから静かに死んでいった。それはきっと幸せな死だったんだと思う。つまり、『100万回生きたねこ』は、死という救済のお話ってことなんだと思う。私はこんなふうに思いたい。

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