KOTOBAYA 雑記帳

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さすが東大な学部長さんのあいさつに太った豚のわが身を恥じる 05:33
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    感想とか書きたいけど、まずい、仕事が締め切りに間に合わない。でも、うろうろしているうちに忘れちゃうと困るから、とにかくこころが熱いうちに貼らせてもらおう。あああっ!もしかしてこういうことしちゃいけないって言ってるんだっけ。こりゃまずい!! やだ〜、どうしよう(おろおろ) 一読して思ったこと。わたしは太った豚だ。頭だけじゃなくてからだ全体だもん。恥ずかしくて生きていけやしない。これからどうすればいいんだろう。とにかく、まずはツァラトゥストラを調べなきゃ!!!!! そして自分自身を燃やそう。まずはダイエットからだ(そっちかい)。

    平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞

    皆さん、本日はご卒業おめでとうございます。
    また、ご列席のご家族の皆様方にも、心よりお祝い申し上げます。今年度の教養学部卒業生は175名で、そのうち女性は50名、留学生が1名です。
    全学の式典はすでに午前中、改装されたばかりの安田講堂で挙行されましたので、ここでは教養学部として、あらためて皆さんとともにこの日を慶びたいと思います。

    東京大学の卒業式といえば、もう半世紀も前の話になりますが、東京オリンピックが開催された年である1964年の3月、当時の総長であった経済学者の大河内一男先生が語ったとされる有名な言葉が思い出されます。曰く、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」。
    当時、私はちょうど中学校にあがる年頃でしたが、この言葉は新聞やテレビでかなり大きく報道されましたので、鮮明に記憶に残っております。また、子供心に、さすが東大の総長ともなると気の利いた名言を残すものだと、感心したこともなんとなく覚えております。皆さんの中にも、どこかでこの言葉を耳にしたことのある人は少なくないでしょう。
    ところが、これはある機会に一度お話ししたことがあるのですけれども、じつはこの発言をめぐっては、いろいろな間違いや誤解が積み重なっているんですね。

    まず第一の間違いは、「大河内総長は」という主語にあります。というのも、これは大河内先生自身が考えついた言葉ではなく、19世紀イギリスの哲学者、ジョン・スチュアート・ミルの『功利主義論』という論文からの借用だからです。
    東大の総長ともあろうものが、他人の文章を無断で剽窃したのか、と思われるかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。式辞の原稿を見てみますと、そこにはちゃんと、「昔J・S・ミルは『肥った豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言ったことがあります」と書かれています。「なれ」という命令ではなく「なりたい」という願望になっている点が少し違っていますが、それはともかく、ここでははっきりJ・S・ミルの名前が挙げられていますから、これは作法にのっとった正当な「引用」です。ところが、マスコミはまるでこれが大河内総長自身の言葉であるかのように報道してしまった。そして、世間もそれを信じ込んでそのまま語り継いできたというのが、実情です。
    次に第二の間違いですが、これはもっと内容に関わることです。じつは、ジョン・スチュアート・ミル自身は「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」とも「なりたい」とも、全然言っていないのですね。さきほど題名を挙げた『功利主義論』の日本語訳を見てみますと、こう書いてあります。

    満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。

    大河内総長の言葉とはだいぶ違いますね。ちなみに、英語の原文はこうなっています。

    It is better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.

    この原文を見ると、どうやらさきほど引用した日本語訳は正確なようですから、大河内総長のほうがこれをまったく別の文章に改変してしまったとしか考えられません。たぶん漠然と記憶に残っていた言葉を、自分の言いたいことに合わせて適当にアレンジしたのでしょう。その結果、「満足した豚」は食べたいものを食べたいだけ食べるということで「肥った豚」になり、「不満足なソクラテス」は食べたいものにも安易に手を出さないということで「痩せたソクラテス」になったものと推測されます。しかしこれでは原文とまったく違ったニュアンスになりますから、ミルが語った言葉として紹介するのはさすがに問題なのではないか。下手をすると、これは「資料の恣意的な改竄」と言われても仕方がないケースです。
    ところが、間違いはこれだけではないんですね。じつは、大河内総長は卒業式ではこの部分を読み飛ばしてしまって、実際には言っていないのだそうです。原稿には確かに書き込まれていたのだけれども、あとで自分の記憶違いに気づいて意図的に落としたのか、あるいは単にうっかりしただけなのか、とにかく本番では省略してしまった。ところがもとの草稿のほうがマスコミに出回って報道されたため、本当は言っていないのに言ったことになってしまった、というのが真相のようです。これが第三の間違いです。
    つまり、「大河内総長は『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ』と言った」という有名な語り伝えには、三つの間違いが含まれているわけです。まず「大河内総長は」という主語が違うし、目的語になっている「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」というフレーズはミルの言葉のまったく不正確な引用だし、おまけに「言った」という動詞まで事実ではなかった。というわけで、早い話がこの命題は初めから終りまで全部間違いであって、ただの一箇所も真実を含んでいないのですね。にもかかわらず、この幻のエピソードはまことしやかに語り継がれ、今日では一種の伝説にさえなっているという次第です。

    さて、そこで何が言いたいかと申しますと、まず、皆さんが毎日触れている情報、特にネットに流れている雑多な情報は、大半がこの種のものであると思った方がいいということです。そうした情報の発信者たちも、別に悪意をもって虚偽を流しているわけではなく、ただ無意識のうちに伝言ゲームを反復しているだけなのだと思いますが、善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます。そしてあやふやな情報がいったん真実の衣を着せられて世間に流布してしまうと、もはや誰も直接資料にあたって真偽のほどを確かめようとはしなくなります。
    情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。
    しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
    今朝の本郷での卒業式では、学生代表の文学部の学生さんが、答辞の中でたいへんいいことを言っておられました。私も今朝初めて聞いたばかりですから正確には再現できませんが、おおざっぱに要約すれば、「どんな言葉にも名前が記されている。たとえ匿名の言葉であっても、それを発した人間の名前は刻印されている。しかしそれで自己規制したり沈黙したりしてはならない。私たちは自分の名前において言葉を語らなければならない」といった趣旨であったと思います。
    まことにその通りで、これから皆さんが語る言葉には、常に名前が刻まれています。それは皆さんが普段名乗っているいわゆる「名前」だけでなく、東京大学という名前であり、教養学部という名前でもあります。ですから皆さんは、今後どのような道に進むにせよ、研究においても仕事においても、けっして他者の言葉をただ受動的に反復するのではなく、健全な批判精神を働かせながらあらゆる情報を疑い、検証し、吟味した上で、東京大学教養学部の卒業生としてみずからの名前を堂々と名乗り、自分だけの言葉を語っていただきたいと思います。

    ところで、もう一度「豚とソクラテス」に戻りますが、私ははじめてこの言葉を聞いたとき、子ども心に、どうして「肥った豚」か「痩せたソクラテス」のどちらかでなければいけないのだろうか、と不思議でなりませんでした。どうせなら「肥ったソクラテス」になればいいじゃないか、と思ったわけです。
    そこで大河内総長の式辞原稿をもう一度見てみますと、そこには例の有名なフレーズに続けて「我々は、なろうことなら肥ったソクラテスになりたいのですが」とも書かれていました。じっさい、ソクラテスであるためには必ず痩せていなければならないという道理はありませんから、この点では私もまったく同意見です。ただ、ぶくぶくと肥ったソクラテスというのもなんとなくイメージしにくいですね。本日の本郷での卒業式では、この3月末で6年間の任期を終えられる濱田総長が式辞の最後でとどめの「タフ&グローバル」を口になさいましたが、ここではその濱田総長と、半世紀前の大河内総長に最大限の敬意を表して、2人の総長の合わせ技で「タフでグローバルなソクラテスになれ」、と皆さんに申し上げておきたいと思います。

    さて、かく言う私も、この3月で教養学部長の任期は終了いたします。また、それと同時に、駒場の教員としても退職いたします。いささか恥ずかしげもなく月並みな言い方をすれば、今日は皆さんの卒業式であると同時に、私自身の卒業式でもあるわけです。人生のひとつの区切りを皆さんと一緒に迎えることができたというのは、何かのご縁かもしれませんが、ともあれこの壇上から式辞を述べるのも、これが最後の機会となりますので、私は大河内総長の「痩せたソクラテス」でもなく、濱田総長の「タフでグローバル」でもなく、自分自身が本当に好きな言葉を皆さんに贈って、この式辞を終えたいと思います。
    それはドイツの思想家、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくる言葉です。

    きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!

    皆さんも、自分自身の燃えさかる炎のなかで、まずは後先考えずに、灰になるまで自分を焼きつくしてください。そしてその後で、灰の中から新しい自分を発見してください。自分を焼きつくすことができない人間は、新しく生まれ変わることもできません。私くらいの年齢になると、炎に身を投じればそのまま灰になって終わりですが、皆さんはまだまだ何度も生まれ変われるはずです。これからどのような道に進むにしても、どうぞ常に自分を燃やし続け、新しい自分と出会い続けてください。
    もちろん、いま私が紹介した言葉が本当にニーチェの『ツァラトゥストゥラ』に出てくるのかどうか、必ず自分の目で確かめることもけっして忘れないように。もしかすると、これは私が仕掛けた最後の冗談なのかもしれません。

    皆さんの前に、輝かしい未来が開けますように。そして皆さんが教養学部で、この駒場の地で培った教養の力、健全な批判精神に裏打ちされた教養の力が、ますます混迷の度を深めつつあるこの世界に、やがて新しい叡智の光をもたらしますように。
    万感の思いを込めて、もう一度申し上げます。皆さん、卒業おめでとう。

    平成二十七年三月二十五日

    東京大学教養学部長 石井洋二郎

    以上、東大のホームページからお借りしました
     

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    内職の時給を笑える? 07:49
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      きのう、久々に自宅に戻ったときにテレビをつけたら、芸人さんたちがビーズ詰めとか造花づくりとかの内職にチャレンジして、時給換算いくらいになるかって番組をやっていた。集中して作業しても時給にすると100円にもならない内職、それで笑いをとってもいいんだけど、私はとても笑えなかったよ。自分の仕事だって内職の親戚みたいなものだもんね。ただね、内職の熟練者が時給100円に甘んじてるはずないよ。なにせプロなんだから。


      ルーチンワークを笑いたければ別に笑ってもいいよ。ぜーんぜん気にしてないもの。目的と努力が直結しているから達成感も得やすいし、職場の人間関係に悩まされることだってないんだ。これって案外幸せなことだったりするんだよ。


      何でも世の中のせいにしていればストレスは少なそうだけれども、もしかしてアナタ仕事が楽しくないんですかって気の毒に思うこともある。「仕事を減らせ〜! 賃金を上げろ〜!」というシュプレヒコールにあんぐり。はあ? どっちかだけにすりゃいいじゃんってフツーに思うけど?


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      幸せの数式をください 20:42
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        月9ドラマ「ガリレオ」が今期も人気だ。ただ、ハマリ役の柴咲コウちゃんが出てないのがちょっぴりさみしいけどね。何があったかしらないけれど、芸能界もいろいろ大変なんだろうね。おっと、今日は月曜日。そろそろ仕事を引き揚げて、家に帰って観ようかな。


        福山さん演じる湯川教授には、「わざわざここで数式出すか!」と突っ込みたくなる気もしなくもないけど、「現象には必ず理由がある」という決めゼリフには納得させられる。本家本元のガリレオ・ガリレイさんの名言、「結果にはすべて原因がある」をもじったものだろうけど。


        つい最近の自民党の教育再生実行本部さんの提言の中に、「文系を含むすべての大学入試で理数科目を必須とすること」というのがあったけど、それは大事なことだと思う。理数系を課さない学部があったとしたら(課されないことで勉強してこなかったとしたら)、どうやって大学で研究するのかってことなんだろうね。


        よく、「生物を学ぼうとすれば化学に、化学を学ぼうとすれば物理に、物理を学ぼうとすれば数学に、数学を学ぼうとすると哲学になる」といわれるけれども、そのニュアンスはよくわかる。もっと言えば、そもそも化学も物理も生物も数学も、学問に境界なんてないんだよ。それに、数学や物理ってやつは理系の専売特許じゃないってことがようやく理解できるようになってきた。


        病院で点滴をするときは圧力と関係するし、レントゲンを撮ろうとすれば核物理学の世界、経済なんていったら、まさに数学そのものだ。学際的分野の代表格である心理学は言うに及ばず、スポーツ界でも力学的な研究が盛んだ。遺跡が何年前のものかを調べるためには数学的な手法で計算するし、お料理だって熱エネルギーや化学反応を無視できない。一見すると数式とは無関係そうに見える芸術だってそうだ。情感込めてピアノを弾く旋律が美しいとしたら、それは打鍵のスピードや強さと脳信号との関係なんだものね。絵画の名作だって、筆圧とか光の屈折とか明度・彩度とか、ほうら、世界は数式であふれている。


        だからね、数学が苦手って子たちも、どうか逃げずに勉強してほしい。やっておいて絶対に損はないよ。人類の幸福に寄与する新しい数式を、もしかすると「あなたが発見するかもしれないんだから!!! 」


        こういう私も、実は大の数学嫌い。だけど、統計とか確率の本ぐらいは、ちまちまっと読んだりしてるよ。湯川教授の言う「実に面白い」どころか、「実に苦痛」だけど、知りたいことを知るためには仕方ないもんね。

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        こんなお医者さんがいたらいい!――最強ドクターロボ 11:07
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          体にあちこちガタがきていても、わざわざ医療機関にかかるほどでもないし、受診する時間もないよ、ということで、症状を入力してネットであれこれ調べてみる。こういう人は私だけじゃなくて、とってもたくさんいるんだろうなと思う。


          それで、思うんだけれど、コンピューターのお医者さん、ドクターロボがいたらすごくいい。あらかじめ登録しておいた年齢や性別などの情報のもとに、現在の症状を何項目か入れていくと、世界じゅうの人の受診記録を即座に引っ張り出してきて、「あなたはAという病気である可能性が70%、Bである可能性が20%、その他である可能性が10%です」とかというふうに診断してくれるんだ。


          それでもって、市販薬はこういう薬を買うといいですよとか、温めるといいとか冷やしたほうがいいとか、いろいろアドバイスまでしてもらえたらいいよね。つまりは、ドクターロボの力を借りて、自分のことは自分で治しちゃえってわけ。いわゆるセルフメディケーションというやつだ。


          ついでにお薬もネットで買って届けてもらえたら最高だよ。受診料もネットバンキングで自動的に引き落とせるようにすればいいよね。人件費が浮くから医療費が軽減されるし、忙しい医療機関の負担を減らせるし、具合が悪いのに休みがとれない働き盛りの人たちに歓迎されて、いいことずくめだよね。


          基礎データが膨大であればあるほど誤診もなくなるし、自分でどの治療を選択するかも決められるし、これがだめだったら別の治療法を試してみようっていうふうに、何でも自分で選べるところがポイントだね。これでドクターショッピングなんてなくなる。


          ドクターロボを導入したらへき地の医師不足だって緩和されるよね。患者さんの情報をもとにロボくんの指示どおりに検査や注射をしてくれる医療スタッフがいればいいわけだから。もちろん外科的なものとかコンピューターにはできないこともあるけれど、それは地域の基幹となる病院をちゃんと整備して乗り切ろう。そこでもきっとロボくんは使える右腕として歓迎されるよ。


          薬を飲んだらこんな副作用が出たよということをちゃんとロボくんに報告しておけば、次にフィードバックできたり、緊急性が高い場合はタクシーと連絡がとれたり、救急車両が呼べたりと、いろんな工夫ができそうだぞ。


          それには、マイナンバーと電子カルテの整備が必要なわけだけれど、早くそんなふうになったらいいのにな。だってさ、自分のことはできるだけ自分で何とかしたいもの。自分のことなのに、誰かに診てもらうしかないってことが、ちょっぴり情けないんだよね。

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          経済学者は白衣を着よう! 15:32
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            山中先生のノーベル生理学・医学賞受賞に日本中がわいている。久しぶりに明るい話題に、なんだかこっちもうれしくなる。山中先生、おめでとうございます! それにしても、先生、若っ!


            ただね、日本人のノーベル賞はいわゆる理系の受賞が多いけれど、経済学賞はまだ誰もいないんだよね。そのあたりの事情が今の暮らしに如実に現れている気がする。長生きできてもちっとも幸せじゃなかったり、液晶画面はきれいなのに流れる政治討論がくだらなかったり、治るお薬があっても高価で使えなかったり、バランスが悪いんだよね。


            科学といっても、自然科学だけじゃなくて、社会科学も人文科学もある。それなのに、「僕の将来の夢は科学者です」といったら、みんな白衣を着て試験管片手に研究する人を思い浮かべるよね。まずは、そのあたりから変えていかないといけないんじゃないのかな。


            超高齢化社会が抱える問題とか、格差の問題とか、自然科学みたいにすぱっと何か解決する方法を見つけるというわけにはいかないの? きっとできるよ。あると信じて邁進すれば、きっとみつかる! (ド素人の私が言っていいのかどうかわかんないけど) 後追い研究も大事だってのはわかっているんだけど、今こそ新しい視点が求められている気がするんだ。復興のために投入されているいろんなお金だって、もっと経済学的な見地からの提案があっていいよね?


            いっそのこと、経済学者も社会学者もみんな白衣を着よう。白衣じゃだめならアカデミックガウンがいい。(権威主義ではなく象徴的な意味でだよ) 子どもたちが科学者になりたいといったとき、その半数は社会科学者や人文科学者をめざしているようなカッコイイ分野にしなくちゃ。



            優秀な科学者を育成するために、あたしゃせっせと働いて税金を納めることしかできないけど、それでいいよ。だから、「あなた自身が輝きなさい!」なんてことは気軽に言わないでほしい。とても輝けそうもない人に対してだけ簡単に言ってくれちゃうんだよね。輝けそうにないことがわかっているから安心して言ってるんだろうけど。



            人にはね、それぞれ役割ってものがある。そして、その役割ってやつは、いやいやどうして案外大切なんだよ。みんな科学者になっても暮らしは成り立たないでしょう? 静かに世の中を支えている人のことを軽んじていると、みんな自己承認欲求にとりつかれて、大きなホラを吹いちゃった、あの「森口センセ」みたいになっちゃうよ。彼のこと、痛々しくて私はとても笑えない。でも、ちょっとは笑っちゃったけどね……。

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            格差の国の物語 17:41
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              ある国に、ちょっと残念な王様がいました。王様は、どうやったら国民に立派な王様だと思われるのか考えました。自分の力では、すべての国民を幸せにできないとわかっていたからです。王様はひらめきました。国民をAとBに区別して、まずはA民のことを幸せにしようと思ったのです。そうすれば、国民の半分は私のことを尊敬するだろう、王様は自分の考えに満足して大きくうなずきました。


              そこで、王様は人々を2つに分けました。国土全体に網をかけ、その網の上に乗った者をA民、網から落ちてしまった者をB民にしたのです。王様の家族や友達が住む場所の網の目は細かく、王様がいる場所から離れれば離れるほど網の目を粗くしましたが、そのことは誰にも知らされませんでした。


              ある者は難なく網の上に乗ることができましたが、ある者はいとも簡単に網から落ちてしまいました。中には、隣の人に蹴落とされた者、病気をしていてはい上がることができなかった者、幼い子どもを抱いていたので網にしがみつくことができない者もいました。


              王様はA民のための法律をつくりました。なぜなら、自分のことを好きになってほしかったからです。A民はどんどん豊かになっていき、みんな王様のことを好きになりました。しかし、B民のことは王様の興味の外にあったので、人々が貧しい暮らしをしていることに気づくことはありませんでした。でも、B民は黙っていました。A民のための仕事をして、A民からお金をもらって生活していたからです。


              あるとき、王様は新しい法律をつくりました。A民はみんな働きすぎである。もっと休暇をとらせてやろう。もちろん、休んでいる間も給料は支払うぞ。A民はみんな賛成しました。勇気あるB民の若者が言いました。「王様、私たちが休みをとっている間、A民の皆さんはお金を払ってくれません。どうしたらいいのでしょうか」。王様は言いました。「それは残念だったね」と。


              あるとき、王様はまた新しい法律をつくりました。A民であれば、子どもが小さいうちはずっと仕事を休んでいいことにしよう。もちろん、その間の給料は支払うぞ。A民はみんな賛成しました。勇気あるB民の女性が言いました。「王様、私が子どもを育てている間、A民の皆さんはお金を払ってくれません。どうしたらいいのでしょうか」。王様は言いました。「それは残念だったね」と。


              あるとき、王様はまたまた新しい法律をつくりました。みんな健康で寿命が延びた。A民であれば年を取っても好きなだけ働けるようにしよう。なあに、B民に頼んでいた仕事を老人がすればよいのだ。A民はみんな賛成しました。勇気あるB民の老人が言いました。「王様、私たちは若いうちから仕事がなくなりました。これ以上仕事がなくなれば、年寄りはおろか若者も生活できなくなってしいまいます。どうしたらいいのでしょうか」。王様は言いました。「それは残念だったね」と。


              こうしてこの国は世界に誇れる豊かな国になり、王様は世界中の人々(ただし自国のB民を除く)から尊敬されました。(この物語はフィクションです)

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              海のこと、山のこと 13:48
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                私たちが美しいと感じる自然のほとんどは、人の手によってつくられ、守られてきたものだ。もしも人の手が入っていなかったら、密林のように不気味な山や、漂着物であふれ返る汚い海岸になっているに違いないよね。


                山が洪水を防いでくれるのも、気持ちよく海水浴を楽しめるのも、人間の手が入っているからだ。田んぼとして使われている土地がもしも放置されたなら、草ぼうぼうになって害虫のすみかになっちゃう。そうなったら熊だって猿だって、自分たちのエリアと勘違いするのも無理はないよね。


                もうかる農業、もうかる漁業、もうかる林業とかいうけど、もうからないけど大切なことはどうすればいいんだろう。そこに住んで山を守ってくれてありがとう、そこに住んで海を守ってくれてありがとう、そこに住んで里山を守ってくれてありがとうということに対して、「ありがとう料金」が支払われて、それで暮らしが成り立つようにはできないのかなあ。


                「もうかる=新しい=正しい」と勘違いしがちだけれど、ずっとそこに住んでいる人たちの知恵ややり方を尊重しないことには、どんなこともうまくいかないって思うんだ。もちろん創意工夫は必要なんだろうけど、難しいね。それとも、グラミン銀行みたいに知恵も一緒に提供して、地元の人自身に頑張ってもらう方法がいいのかなあ。

                作付制限で稲が植えられていないあたりの田んぼを見ながら、ふとそんなことを思ったよ。ピンチはチャンスって簡単にいうけど、ほんと、変わっていくのは大変だよね。

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                ポストなまぽ 02:33
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                  複数の芸人さんに端を発したなまぽ問題。「せいほ(生命保険)」と区別するために「なまぽ(生活保護)」というのだそうだが、妙に感動してしまった。「なまぽ」って酒の肴みたいにおいしそうな名前だね。若者が使い出したのかな? おもしろすぎる!


                  これをきっかけに、話題の「ベーシックインカム」についていろいろ調べてみた。なるほどね。仕組みや考え方としてはわかったし、これ、いいんじゃないかと思う。実際には不可能なのかもしれないけど、これだったらいろんなことが一挙に解決しちゃうよね。それとも、解決した先からまた新しい問題が出てくるのかな?


                  生活保護をもらってパチンコに行こうがお酒を買おうが、私はそれも仕方ないと思うのね。だって人間はそんなに強くないもの。それができなくなったら凶悪犯罪が増えちゃうんじゃないだろうか。世の中、あんまりきれいにしちゃうまくいかないんだよ、きっと。


                  問題なのは、同じようなケースでもAさんはよくてBさんはダメみたいに、人の主観で差が出てくるってことだよね。だから、できるだけシステムをシンプルにして不平等感を排除して、その上でベーシックインカムではカバーできないところの策を考えればいいんじゃないのかなと思うんだけど、そうするとまた手続が複雑になって元の木阿弥?


                  ただ、私が今やっている仕事は、幸いにも苦役(レイバー)ではなく、基本的に生業(ジョブ)であり、生きがい(ワーク)だから、貧乏でもそこそこ幸せなわけだけど、以前の仕事は苦役に近かった。ベーシックインカムとなると、みんなが敬遠する(それでいて大切な)仕事は誰が担ってくれるんだろう。そもそも、これって日本という風土に合うんだろうか。

                  Eテレの「ニッポンのジレンマ」でこの問題を取り上げてくれないかな。いろんな意見がありすぎて、どう考えたらいいかわからなくなっちゃった。飯田先生、萱野先生、どうなんですか? 私が考えたってしょうがないんだけど、なんでだろ、考えてみたいんだよね。いい歳になって、ようやく世の中のことが気になりだしたってことかな。

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                  国策と宝くじ(たまにまじめな話) 02:28
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                    よしログで東大芸人さんが言ってたんだけど、1俵分のお米の中に1粒だけ赤く塗った米粒を入れておいて、偶然選んだ1粒がその赤い米粒である確率と、宝くじに当たる確率はどっちが高いかというと、赤い米粒のほうなんだって。それでも多くの人が長蛇の列をつくって宝くじを買い求めるんだよね。一方で、宝くじなんか馬鹿にしている富裕層の人たちを思うとき、宝くじのシステムは、まさに「国策」なんだなって思う。


                    少し時代はさかのぼるけど、食べていくという目的のために、勇気を振り絞って海外に渡った人たちがいる。彼らはいったいどんな思いだったんだろう。移民政策でブラジルやペルーに渡ったり、あるいはダバオでマニラ麻を栽培した人たちだ。みんな貧困だったがゆえにリスクをいとわなかったんだろうな。満州国だってそうだ。当時は、そこが希望の地と信じたに違いない。


                    つまり、いつだって国策とやらに振り回されるのは貧しい人たちだってこと。たとえ情報が同じだったとしても、与えるインパクトは所得によって違う。そもそもお金持ちは宝くじなんか買う必要がないという点で、リスクから遠いところにいる。当たらないことは想定しながらも、宝くじを買うことにわずかな希望を見いだしている人たちが莫大な収益金を支えているんだ。


                    国策のポイントは、おいしい餌をちらつかせることと、自己決定権が与えられているように見せることの2つかな。だから貧乏人はまんまと乗せられていることにさえ気づかない。それでもって自己責任とかいわれて納得しちゃう「いい人」たちがいっぱいいる日本だからこそ、ここまで発展できたんだと思う。でも、これからはどうなんだろうね。国策の手口(笑)にそろそろみんな気づいてきたんじゃないのかなあ。例のあの事故の件はあえて言わないけどね。

                    ま、宝くじの場合は社会貢献てことで解決させちゃいましょうかね。

                     

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                    オイコノミアで保険のことやってた 13:04
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                      オイコノミアでね、保険のことをやってたよ。大数の法則の実験がおもしろかった。それから、保険は高額なお買い物と聞いてちょっと救われたよ。極貧だったころ、保険を解約して生活費に回しちゃったから。今入ってるのは掛け捨てのすんごく安いやつだけだもの。


                      リスクの高い人ほど保険に入りたがるって話だけど、これって貧乏人ほど宝くじを買いたがる傾向があることと似ているなって思った。不安に備えるか、わずかな希望に懸けるか、違いはあるけどね。いつだったか、ご夫婦でひっそりと亡くなられた方のお部屋に、宝くじの外れ券が一枚残されていたという記事を読んで涙がこぼれた。それに懸けるしかなかったんだね。


                      一般人はリスクに備えることで、貧乏人はわずかな希望にすがることで、それぞれこころの平安を手にしているってことなんだろうな。だから、いくら確率論で説明されても、それでもやっぱりカモになっちゃうんだろうし、好きにさせてあげるしかないような気もするんですけど、どうなんですかね、阪大の大竹センセ。2回目も楽しみにしてますよん。ちなみに私は相変わらず貧乏だが、一発逆転はかなり懐疑的だ(笑)。


                      それにしても、確率って学校に行ってたころはキライだったけど、かなり生活に直結していておもしろい!! 収入とか、性格とか、社会情勢とか、いろんなことがあっての人間の行動のはずなのに、それすらも「大きな数」によって結局ならされてしまうんだね。自分もそのうちのちっちゃい一人なんだな。

                      | 世の中のこととか | comments(0) | trackbacks(0) | posted by m-minako - -
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