病院で取り違えられて、本来の家族ではない家族の中で育ち、後にそのことに気付いてしまう。これは映画か小説かと思うようなことが起こってしまったけど、自分に置き換えて考えてみたら、ひたすら気が遠くなった。
この事件は、図らずも、環境によって人生そのものが左右されてしまうことを教えてくれたよね。もちろん、どっちの家族と暮らしたほうが幸せかなんてだれにもわからないけれど。
人間はものすごい受容能力を持っているんだな。どこの国で生まれるか、どんな言葉を話すのか、どんな親で、どんな家計で、どんな学校に通って、どんな人に囲まれて、どんな教育を受けて、どんなものを食べて、どんな服を着て、どんなことを悩み、どんなことを考え、どんなことを大切にするか、それはほんとうに偶然そのものなんだね。
もっとかわいく生まれたかったなとか、もっと豊かな家で育ちたかったなとか、もっと高い教育を受けさせてもらいたかったなとか、漠然と考えたことはあったけれど、それは仕方のないこと、自分に与えられた運命として受け入れてきた。
なぜって、持って生まれたものをそのまま受け入れることなしには生きていくことはできないからだ。これこそ究極の不平等なのに、人はみんなそこはちゃんと受け入れる能力を持っているってところが、いまさらながら驚きだ。
あなたが田舎育ちで、私が都会育ち、あなたが貧乏で、私が裕福だっておかしくないわけだ。レジでお金を取り出すのに四苦八苦している老女に後ろの紳士が舌打ちしてたけど、そのご老人が紳士のお母さんだったなんてこともあり得るのかもしれない。誰かが偉そうに首根っこつかまえて担当者に責め寄る映像を見たけど、実はその公務員さんはその人の兄弟だったってこともあるのかもしれない。
妄想を膨らますと、みんな絶対なんてなんにもない何とも心もとない世の中で、自分が信じたことを頼りに手探りで生きていることがわかる。自分が持っているものがすべて偶然の産物だとしたら、相手の立場になって物事を考えることの大切さがとってもよく理解できるよね。
もちろん、なにを持たされて生まれてきたら幸せなのかも決まっていないけれども、食べ残したパンを捨てる人もいれば、そのパンを拾って満たされる人もいることを考えたら、両者が同じ価値観を持っているとは到底思えない。つまり、幸福観そのものも生まれた環境に左右されてしまうんだってところが案外恐ろしい。