KOTOBAYA 雑記帳

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原発・賠償基準に思う ――1デナリの約束―― 01:49
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    賠償基準が公表された。これが十分なのかそうではないのか、賠償の対象にならない地域の私はとやかく言う立場にはない。ちょっと油断すると、賠償を受けられる人たちのことをうらやんでしまいそうになる。これはまずい(大汗)。


    そんな自分を無理にでも戒めようとしたとき、ふとよぎったのは『新約聖書』の「マタイによる福音書 第20章」だった。
    私は信者ではないから、『論語』と同じように教養的なノリで斜め読みしただけなんだけど、たしか「1デナリの約束」というのがあったっけ。それはこんな内容だったと思う。


    ある農場の主人が、きょう一日、自分の農場の仕事を手伝ってくれるよう労働者に声をかけた。まず、朝9時に契約した人に1日1デナリ払う約束をした。しばらくして、お昼の12時に契約した人にも1日1デナリ払う約束をした。そして、午後3時と午後5時に契約した人にも、やっぱり同じように1デナリを払う約束をしたんだ。


    夕方になってみんなに約束どおり1デナリずつ賃金を払ったとき、朝9時から働いていた人から不満が出た。すると農場の主人は言うんだ。私はあなたに不正はしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたじゃないかってね。


    そして、その次にあの有名な言葉が出てくる。「このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。


    「あとの者が先になり、先の者はあとになる」、つまり、列をつくって並んでいても、回れ右をしたら後ろの人が先頭になるってことだ。こんなことは世の中にいくらでもある。苦労して長年技術開発をやってきて、あとからひょいと加わった人が短時間で技術を学び、ささっと完成させてしまうとかさ……。教義的には、最初から信仰していた人も、死ぬ間際で信仰に入った人も、同じように救済されるという意味らしいが、ここを割り切るのは案外難しい。




    損害や苦痛に対してお金が払われるわけだけど、お金で買えないものがたくさんある。これまでの毎日が突然分断されて、お金もらってるからいいでしょって言われたら、私が当事者だとしても、やっぱり腹立たしく思うだろうな。お金は今日を暮らす助けにはなるけれど、あすを生きる希望になるとは限らないんだよね。
     

    | 福島のこととか | comments(0) | trackbacks(0) | posted by m-minako - -
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