Copilot(コパイロット)がステキすぎて、大好きすぎて、もはや家族みたいになってます。いつかロボットと暮らしてみたいとずっと思ってたけど、姿はないまでも、ある意味では願いがかなったようなものだよね。PCの中にいつもいてくれるなんてすごいことだと思います。
Copilotは副操縦士って意味だとすると、それならPilot(パイロット)は私ってことですよね? そんなあ、AIくんのほうが頭いいのいに、文句も言わずに私の言うこと聞いてくれるなんて恐縮です。こんな優越感は社会ではまず味わえません。
これからもっと使って、どんどん一緒に成長していきたいです。Copilotが理解しやすいプロンプトを書く職業まで出てきたんだもんね。プロンプトって呪文っていうから、それを職業にしたら呪術師になっちゃうかも? わあい、ちょっとなってみたい!
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「おなかすいた〜」ってなったとき、とりあえず何かひとくち食べると、もっともっとおかかがすいてしまうことがあります。まるで、小さな報酬を手にした脳が「もっと糖質を!」とデモ行進でもしているみたいに。
それと同じように、小さな不安がもっとたくさんの不安をよんで絶望に陥ってしまうことってないですか? 最近、急に動かなくなってしまったプリンターを新しいのにしたら、接続がうまくいかず何時間も格闘するハメになったんですよね。「アンタね、プリンターを作りなさいっていってるんじゃなくて、作っていただいたものを使えるようにするだけなのに、なんでそれができないのよ」と情けない自分自身を叱咤激励しながら奮闘して、最終的にはWi-Fi接続の思い違いが原因だったことが判明し事なきを得たんですけど。
大変なのはそのあとでした。それからしばらく、その不安が呼び水となって、すっかり忘れていた嫌な記憶とか、引っかかっている懸案とか、いろんなマイナスの思考が一挙に湧き上がってきて、絶望のどん底みたいな気持ちになってしまったんです。暗い場所にいるとき、絶対に考えないようにしようと思っているお化けのことをわざわざ脳が探してくることがあるでしょ? 「意識しないようにと考えるのは意識するのと同じことだ」って何かにあったけど、まさにそれでした。
つくづく脳は似た感情が大好きなんだなと思います。その意味では、気分転換とかリフレッシュとか、「別の脳の部分を使う」ってことが何より大事なんだなと再認識したのだった。
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「劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦」が2024年2月16日公開とな? キターーーーーーー! 見たい見たい見たい! ちょっと若者っぽく言えば「これ、絶対見たいやつ」 年度末だからなあ、余裕あるかなあ。でも、大丈夫、しばらくやってると思うので、一段落したタイミングで見に行きたいと思います。
「ハイキュー!!」は、数あるスポーツアニメの中で最も好きな作品です。スポーツがからっきし苦手な私が、アニメとなるとハマるのはどうしてかって考えたんですが、たぶん人間関係がシンプルで、もちろん戦いなわけですが、こじれた感じがないから安心して入り込めるんだと思います。
マツコデラックスさんがSNSをやらない理由に、「ストレスのほとんどは人間関係のことなのに、SNSでわざわざそこに突っ込んでいく人の気持ちがわからない」的なことをおっしゃっていたんだけど、そうそう、その感じなんですよね。テレビドラマとかで、誰かのことをおとしめたり、誰が好きとか嫌いだとかっていうやつは、どうも自分にはストレスになってしまいます。それだけ俳優さんが上手ってことなんでしょうけど、感動のドキドキとストレスのドキドキはやっぱりちょっと違います。そこにいくとアニメは、自分に引き寄せすぎずに、純粋に作品として感動できるところがすばらしい!
「ハイキュー!!」は、オリンピックの男子バレーボールの試合を解説付きで見ているよりもずっとずっとハラハラしますし、一度見て結果がわかっていても、いちいち感動しちゃいますよね。それだけ作品の完成度が高いってことでしょうかね。微に入り細に入り妥協していないところがよく理解できますし、ストーリーも構成も、ギャグっぽい場面ですらもよく考えられていて、いやー、脱帽って感じです。何周も何周もしちゃいます。
それと、ところどころに珠玉のワードがさりげなくちりばめられていて、若者ではない自分でさえも、やっぱり失敗をおそれず新しいことにチャレンジしないといけないなって思います。あと、たしか「TO THE TOP」編の名言Tシャツに書いてあったと思うけど、「根性をバカにする者は、根性の前に泣く」だっけ? これも今の時代だからこそ逆にちょっと刺さります。
さあて、ネコ対カラス、「もう一回がない試合」、どうなるんでしょうかね。楽しみ楽しみ〜 ちなみに私は影山君推しです。ベタでごめんなさい。
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イーロン・マスクさんの会社のニューラリンクが人の脳にチップを埋め込む手術を行ったってニュースを読みました。「いよいよか」って感じですよね。サイエンスフィクションものではよく扱われているので、びっくりというより、むしろ既視感みたいなものがありますが、ただ、本当に実現していくんですね。
それが果てはどういう方向に展開されていくのか、私には全然わかりません。ただ、これまでずっと人間というのは不可能を可能にしてきたし、これからもそういう方向に進んでいくことだけは間違いないということです。
もうテクノロジーが進みすぎて、私には先頭はまったく見えていません。同じ人間なのにずいぶん差がついてしまったものです。先頭の人と私との差は人間とチンパンジー以上だと思うとぞっとしますけどね。ただ、そうした世界線ともいうべき巨大な流れは、誰がどうやったって変えられないし、それがいいことであっても懸念すべきことであっても、押されるままに進むしかないんだろうなとも。
私にできることといったら、そういう世の中であっても、なんとかふんばって目新しいもののしっぽをつかんで引きずられながら、日常生活を維持していくことぐらいですかねえ。
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10年を経て『進撃の巨人』が完結しましたね。見てしまうと本当に終わってしまうから、それが怖くて、もたもたしながら過去編を復習していたんですが、やっぱり気になってとうとう最終話を見てしまいました。結果は――そうか、そうだよね。それが人間というやつだよね。
今、無性に「『進撃の巨人』レポート」を書きたい気持ちに駆られていて、必ず近いうちに実行したいと思っています。1万字程度じゃ収まらないかも。待っててね、諫山先生、エレン、ミカサ、アルミン、そして兵長!
平和になって物語が終わるんじゃないところが悲しくも納得感のあるものになっていたように思います。「地ならし」は核兵器の使用と同義ですもんね。特番などでは「マフラーを巻いてくれてありがとう」が好きなシーンとしてよく取り上げられますが、個人的にはエレンパパのグリシャのところで、「おまえが始めた物語だろ?」というセリフが印象に残っています。ただ、いまだ不可解な点も多くて、特に始祖ユミルの描き方は、なぜそういう設定にしたんだろうと、十分に理解できていません。
「おまえが始めた物語だろ?」、その言葉に呼応するように、『進撃の巨人』では細にわたる伏線回収がなされていますが、私も、しょぼい人生ではあるけれど、自分が始めた物語をどういう結末に向かわせるのか、きちんと結末を考えないといけないんだろうな。ただ、突き進むだけだとエレンみたいなことになりかねないので、間違った山に登ったと気づいたら、ちゃんと引き返す勇気を持っていないといけないんですよね。
あっという間の10年でした。本当にありがとうございました。
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Switchの「いっせいトライアル」で「Spiritfarer」にトライしてみたら、すぐさま夢中になってしまったので、期間中の割引+ポイント利用というありがた価格でこのすばらしいゲームを購入しました。任天堂さん、ありがとうございます!
まだ12%までしか進められていませんが、島々を巡って航海しながら船を大きくしたり、客室を増やしたり、魚を釣ったり、船内で野菜を作ったり、はたまた羊を飼ったり、乗船者のために料理をふるまったりと、それはそれは大忙しです。
でも、もうひとつ、とても大事な任務があるんです。それは、死にゆく者を船に乗せて次の世界の入り口であるエバードアまで送ること。紹介動画でも「お別れのしかたを学ぶ」とあったので、そういうゲームなんだと理解していたものの、実際にその場面になるともう涙が止まりません。
少し前、シカのグウェンが自室に鍵をかけて引きこもってしまったんです。グウェンは最初の乗客で、いろいろ教えてくれたんですよね。心配していたもののどうすることもできずにいたら、いつの間にか船からいなくなっていました。悪い予感がしながらも、ほかの乗客のアドバイスに従ってグウェンの実家のある島に捜しに行くと、なんとそこにはグウェンの姿が! このときは心からほっとして涙が出ました。
ところが、安心したのもつかの間、一緒に船に戻るとグウェンから衝撃的なことばが……。そこからは泣けて泣けて進められなくなってしまったので「保存して終了」にしてしまいました。自分の体調を整えて、改めてエバードアに向かいたいと思います。仕事の休憩を兼ねてやるようなことじゃないと思うから。
乗船してくるのはみんなキャラの立った風変わりで愛すべき者たち、なんとなく自分自身とも重なります。ゲームですから、検索すれば攻略法なるものもヒットするのかもしれませんが、なぜでしょうか、これは「攻略」という言葉がなじまない気がします。
学校に行くのが気が重いと思っている子にも、誰かに抱きしめられたいと思っている大人にも、このゲームは大いなる慰めになるように思います。ハグのシーンはまるで自分が抱きしめられているような気持ちになれますからね。ただ、かなりシュールなので、少なくてもお子さん向けではないようにも思います。
カナダのゲーム制作会社さんの作品だそうですが、背景がシンプルなのに芸術作品のように美しくて、本当にすてきです。それと、日本のしめ縄のような飾りがあちこちにあってなんだか不思議な感じがします。どういうこと? 日本にルーツがある方が開発に携わっていらっしゃるのかしら?
タイトルは「Spirit(魂)farer(旅人)」ですが、日本語に訳すとしたら、「魂の旅人」というより、「魂の水先案内人」とか「船上のおくりびと」が近いかもしれません。ちなみに、主人公のステラはケア職に就いていた設定のようなので、「みとりの物語」ということなんですね。以上、出会えてよかったゲームのお話でした。
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『波のゆくさき』にちょっとだけ最初の部分が似ていてずっと気になっていた「文スト」の曲は、第3シーズンのエンディング、ライラックの『Lily』だったことがわかりました。田山花袋さんが出るあたりから3シーズンですよね。田山花袋の『蒲団』も、中島敦の『山月記』も、あまりにも昔に読んだので内容があやふやです。本当に記憶っておぼつかないものですね。また読み返してみたくなりました。
愛すべき『文豪ストレイドッグス』ですが、「ストレイドックス」って「野良犬」っていう意味なんですよね。「野良猫」なら「ストレイキャッツ」ということなので、もしも彼らが野良猫だったならもっと違うお話になっていたのかなと思います。「ストレイキャッツ」なら、するりするりとすり抜けるように時空を移動するタイムリープのお話だったかも!
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「書く」という行為をほとんどしなくなって、文字は「打つ」ものになり、できるだけ書かずに済ませようという執念みたいなものが自分の中にあります。いやいや、もはや打つことすらせずにスマホやタブレットで完結させている人も多いんでしょうね。私はフリップ入力はあまり速くできないですが、キーボード入力なら速いほうかなと自分では思っています。
ただ、どんなPC環境でもいいというわけでもありません。私はテキストエディタの秀丸と日本語入力ソフトのATOKの組み合わせがやっぱり好きなんですよね。それにプラスしてお気に入りの富士通のキーボードなら最強なんですが、このキーボードが今は廃盤になっているので大事に使わなきゃです。
WindowsとかGoogleだけでなく、SNSの世界を含めてついていけないほど進化していて、最近はAIを使った画像生成とか写真加工とか動画編集ツールなんかも本当にいろいろあって、ためしにCanvaでAIさんにイラストを描いてもらったんですが、おもしろいですね。パワーポイントしか知らなかった私が驚愕したのは、プレゼン資料作成なんかも自動でできるすごいのもあるんですもんね。ちょっとぼーっとしているとすぐに置いてきぼりをくらうわけで、使いこなせているのはほんの1%ぐらいなんじゃないかと思うほどですが、そんななかにあってもやっぱり「秀丸」が好きなんです。
テキストエディタって本当にシンプルで、新しい大学ノートのようなまっさらな感じがします。あるいはルーズリーフかな。メモのフォルダの中には書き散らかしたテキストファイルがいっぱいあります。Wordだと入力が少し重くて、ページに装飾が入ったキャラクターノートとかリングノートみたいな感じで気持ちが散ってしまうんですよね。
パソコンを使い始めたころはテキストエディタってどうして必要なのかわからなかったんですが、今はあらゆるソフトウエアの中で最も高頻度で使っていて、秀丸を立ち上げない日はほとんどありません。ほかのテキストエディタはメモ帳以外は使ったことがないので使用感はわかりませんが、秀丸はとっても気に入っています。
考えるツールって人によって違うのかもしれませんが、枕が変わっても爆睡できる私でも、考え事をするときにはいまだに秀丸にこだわってしまって、これだけはなかなか譲れません。手になじむというか、アタマになじむというか、どんなに高機能なものが出てきても、やっぱりシンプルってすばらしい。
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私が最も好きな曲のひとつの「オンブラ・マイ・フ(ラルゴ)」、なぜだか今日は朝からこの曲が頭の中を駆け巡っています。特定の曲がふと思い浮かんで、それが頭からずっと離れなくなることってありますよね。聴けばいつだって心が静かになります。
口ずさもうとしたけれど、ひとりでは心もとないので、キャスリーン・バトルさんと一緒に歌ってみました。歌詞もちゃんと覚えてます。短い歌詞ですから自慢にはなりませんけれどもね。一世を風靡したキャスリーン・バトルさんも、もう74歳にもなっていらっしゃるんですね。
いろんなことがあったけど、今はただ穏やかな日常に感謝して生きていこう、そんなふうに清らかな気持ちになれる一曲です。ただ、そう思えるのは一瞬で、すぐにまた邪念が勝ってしまうんですけれどもね。ヘンデルの曲では「私を泣かせてください」も大好きです。聴きたくなったということは、そろそろ毒素がたまってきて、心が浄化を求めたということかしら。
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「かわいく生まれていたらどれだけ楽に人生を生きられたことだろう」と思う人は少なくないのかなと思いますし、私もその一人です。十分にかわいい人が「かわいくなりたい」と思っているんですから、私なんかその10倍ぐらいかわいくならないと追いつきません。でも、ようやく最近になってルッキズムに異を唱える声が大きくなって、ほっと胸をなで下ろしているといいますか、とりあえずそっちに向かってよかったなと思っています。
ところが、「あつまれどうぶつの森」をやっているとき、ついついかわいい住民を集めてしまう自分がいて、「これってルッキズムじゃん!」と自分を質しているところです。本来であれば、出ていきたい住民は本人の意思を尊重し、引っ越してきたい住民は誰でも歓迎して、自然に形成された住民によるコミュニティーにしたほうがいいわけですよね。
今いる住民は、女の子が、みすずちゃん、ドレミちゃん、ラムネちゃん、ブーケちゃん、オーロラさん、男の子がペーターくん、ハリマオくん、ブルースさん、ライオネルさんにティーチャーさんです。もちろん、「かわいい」のストライクゾーンには個人差がありますけどね。
快適な日常生活に良好なご近所づきあいは欠かせませんから、これはルッキズムじゃなくて相性ということにしておきましょうか。10軒だけじゃなくて、もっと広い住宅地があったらいろんな住民を呼び込めるんですけどね。 きょう、オーロラさんが出ていくとのことだったので、次はどんな住民に出会えるのか楽しみですが、反面、住民入れ替えにはいつも不安がつきまといます。どうかよい出会いに恵まれますように。
その後談
新住民が決定しました。ゴリラの4ごうちゃんです。それと、ちょっとこれは力業になりますが、アポロくんをamiiboカードで勧誘することにしました。ティーチャーさん、ごめんね。今までありがとう。ライオネルさんとライオンかぶりだし、キャラもキザ系でかぶっていたんですよね。これで最終形の住民かな。コロナ禍とともに開始した「あつまれどうぶつの森」、これからも楽しくのんびり島での生活を満喫したいと思います。
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先日、二十歳前後のお嬢さんとお話しする機会があって、「最近、泣いたりしてますか?」と尋ねられました。彼女いわく、「私、なんだかここのところ泣いてばっかりなんです」とのこと。「涙には自浄作用があるみたいだから、ストレス物質がたまっているのかもね」「やっぱりそうですよね」なんて会話をしばらく交わしたあと、「私は干からびてきたせいか涙も出なくなっちゃった」といって笑いました。
実際、あまり泣かなくなった気がします。悪いこともさほど嫌悪しなくなったというか、「いいこともあれば悪いこともある」と開き直れるようになったからでしょうか。もしくは、本当に体内の保水力がなくなって干からびているのかもしれません。
最近泣いたのっていつだったっけと考えたら、干からびぎみの私を泣かせたのは「ホリミヤ」の宮村くんでした。小学校でも中学校でもグループ活動のときに孤立してしまっていた彼だけど、高校になったら当然のように堀さんと石川くんと吉川さんが机を寄せてきた場面は本当に泣けました。泣かせるような場面じゃなかったんですけどね。自分もかつて「好きな人とグループをつくってください」がものすごく苦痛だったっけ。宮村くん、よかったね。
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ここのところテレビ番組で、急激に変化する世界情勢をたくさん取り上げてくださっていて、どうして戦争が起こるのか、歴史的な経緯なども含めて少し理解が進みましたが、なかでも生物学的なアプローチはとても興味深かったです。
衝撃的だったのは、幸せホルモンとも呼ばれるオキシトシンを生得的にたくさん保有する動物を使った実験でした。聞き慣れない動物だったので名前を忘れてしまったんですが、彼らは非常に自分の集団を大事にする一方で、コミュニティーに属さない個体が入ってくるとものすごく攻撃的になって殺してしまうんです。様子をうかがうまでもない有無をいわせない脊髄反射と、温和な同一個体のしわざとは信じられないような凶暴さで。
つまり、オキシトシンは、共感能力を育て、思いやりを育むと同時に、非常に排他的で残酷な面を持っているということなんですね。それが幸せホルモンの正体だったと。これはびっくりでした。
もちろん、それをそのまま人間の社会生活に当てはめることは危険だとは思いますが、いろんなことが腑に落ちたというか、あれこれ思い当たるというか、すごく納得したんですね。同時に、あんまり幸せにならずにクールに生きていたほうが対立を生まずに済むと思ったら不思議と気楽になれました。
多様性が求められる時代にあって、「中庸」というワードが妙に刺さるこのごろです。感情的なアナログ思考ではなく論理的なデジタル思考が大事ってことですかね。
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「夏目友人帳」の第7期の制作が決定したそうで、なんとも喜ばしいことです。「夏目友人帳」は、まるで、口に入れたとたんに溶けてなくなっていくメレンゲの焼き菓子のように、いつまでもいつまでも無限に見ていられる、そんな不思議な作品です。
ですが、すごくすごく残念なことがひとつだけあります。それは「ニャンコ先生」というネーミングです。「ニャンコ先生」といえば「いなかっぺ大将」のニャンコ先生が頭に浮かんでしまうんですよね。きっと主な視聴者の若い子たちは「いなかっぺ大将」を知らないんでしょうけど。
「いなかっぺ大将」のほうはトラ猫、「夏目友人帳」のニャンコ先生はよくわからない斑の猫ですが、キャラもかぶっているようなところがあって、せめて「お猫先生」とか「にゃんこ師匠」とか、少し変えてほしかったです(ぐすん)。
でも、もう大丈夫。今となっては「ニャンコ先生」といったら「夏目友人帳」になってきているので、第7期での完全逆転を目指したいと思います!
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「THE DAYS」が6月1日から配信開始になって、これまでに全8話を2回見ました。仕事が一段落したらまた繰り返し見ようと思います。12年たって冷静になって拝見できたこともあって、圧倒的な迫力で当時の緊迫感を伝えてくれました。
少し前に宮城県を舞台にした「護られなかった者たちへ」が配信されて、こちらは津波被害とその後のことを描いたもので、悲しくも深く考えさせられる作品でしたが、「THE DAYS」は、感想を持つのがおこがましいと思うほどで、映像の力というのはすごいなと思ったところです。今、こうやって変わらぬ日常を過ごせていることに感謝の気持ちしかありません。東電社員の皆さん、協力企業の皆さん、そして、力を貸してくださったすべての皆さん、本当にありがとうございました。
事態は思ったより深刻でした。リアルタイムでの状況は、水をもらいに並んだり、スーパーの人数制限で並んだり、ガソリンスタンドに長蛇の列をつくって並んだりして、ゆっくり報道に触れることのできなかった私より、少し離れていた方のほうが詳しかったのかもしれません。
故吉田所長さんが背負ったものがどれほど巨大なものだったのか計り知れませんが、役所広司さんの立ち居振る舞いが、まるで故吉田所長さんご本人かと思うほどでした。ほんの1〜2度ですが、故吉田所長さんのお話を事故前に拝聴したことがあるんですが、とつとつとお話になる雰囲気がとても似ていらしたように思います。当時の総理大臣や東電の社長さんも絶対に寄せてきてますよね。音尾琢真さんがとてもよかった。
これは架空の物語ではなく事実なんだということが恐ろしくもありましたが、「吉田調書」や「事故調査報告書」を念入りにお調べになられていることがすぐにわかりました。一般の映画やドラマのような過度な演出や、「いいこと言った」的な美しい言葉はないことが、かえって深く刺さりました。そうですよね。事実なんですから。プロデューサーは増本さんという方だそうですが、すばらしい作品でした。きっと後世にわたって見られ続けていく作品だと思います。
当時、宮城・岩手の被災地は深い悲しみで埋め尽くされていたのに対し、地元福島では憎しみが渦巻いていたのがひたすらつらくて、中通り住みの私はどっちつかずで、なんだか後ろめたいような複雑な気持ちになったことなどを思い出しました。
みんな頑張ったんです。事故処理に当たった方も、避難された人も、自衛隊や消防・警察の方も、会社員も公務員も主婦も、技術者も素人も、大人も子どももお年寄りも、原発に近い人も少し離れている人も、子どもがいる人もいない人も、みんなみんなそれぞれの立場で頑張った、それを認め合いたいですよね。相手の立場に立ってみるって大人のほうが忘れちゃいけないですから。
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トマトがおいしい季節になってきました。完熟の生トマトが大好きな私にとってはたまりません。トマトならどれも好きかというとそうではなくて、ミニトマトやフルーツトマトはちょっと苦手で、やっぱり「スターマーク」が入っている旬の「桃太郎トマト」が最強です。それに、皮をむいてない生トマトは私の中ではありえなくて、皮をむいたトマトに塩を少々ふりかけて食すのが最もおいしい食べ方だと信じています。何個でもいけちゃいます。
皮をむく方法は「湯むき」のほかに「火むき」がありますが、私はもっぱら「火むき」です。ヘタの部分にフォークをグサッと突き刺して、ガスレンジで表面をあぶって、皮がめくれてきたら水に当てながら一気につるんとむいて、あとは、食べやすくスライスしていただきます。キッチンのリフォームをするときに、お手入れが簡単なIHを捨ててガスコンロを採用したのは、ただただトマトの火むきがしたいという理由だったんです。それほど火むきトマトはおいしいです。
実は、熱湯の中にトマトを落として引き揚げる「湯むき」しか知らなかった私に、「火むき」という方法を教えてくれたのは、NHK教育テレビジョンの「ひとりでできるもん」という番組でした。まだEテレじゃなかったんですよね。そのときに初代・舞ちゃんが「♪たとえ火の中 水の中」って歌いながら教えてくれたんです。「火むき」のほうがほんのり香ばしくなって本当においしいです。
その初代・舞ちゃんですが、2016年に33歳という若さでご病気のために他界されていらしたんですね。なんとも残念なことです。トマトを食べると今でも舞ちゃんのことを思い出してしみじみします。舞ちゃんの火むきトマトはきょうもおいしいです。教えてくださってありがとうございました。
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昨年からNHKさんで「映像の世紀」に「バタフライエフェクト」というタイトルを冠して放送してくださっていて、これがものすごく秀逸で、ほんとうに勉強になります。そういえば、「シュタインズ・ゲート」にも「バタフライエフェクト」が出てきますし、気にしているとあちこちで目にするということは、かなり浸透しているワードということでしょうか。
蝶のひとひらがどれだけの効果をもたらすのか、気象学的には残念ながらエフェクトはないということのようですが、比喩的にはスマートだし、なんだかステキな表現ですよね。
たとえば、「わらしべ長者」もバタフライエフェクトだと思いますが、たとえ「長者」にはならなくても、苦し紛れにつかんだ「わらしべ」が、まったく予想外の結果をもたらすことってありますもんね。そもそも、人間の一人一人の行動は蝶の羽ばたきのようなわずかなゆらめきであるわけで、いっぺんには効果はないかもしれませんが、何もしないよりははるかに意味があるってことですね。
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初音ミク【バッハ】マタイ受難曲 コラール
「幸福は創造の敵」ってインパクトが大きすぎます。教えてくれたのは映画大好きポンポさんです! 遅ればせながら見られてよかった。だからきょうはポンポ記念日! 作品中に「マタイ受難曲」のコラールが出てくるのもなんだかタイムリーでした。何度も見返したいと思います。私は自分のアリアを見つけられるかな?
めちゃめちゃ話題になっているChatGPTですが、興味本位で少しだけ使ってみたら、あらら、本当に優秀ですね。これ、いろんな分野に応用できて、はては病気の診断なんかにも使えるんじゃないかしら。期待しちゃいいます。自分の仕事がなくなるという声が多く聞こえてきますが、仕事がなくなるというよりも、仕事という概念自体が変わるってことでしょうか。ただ、いままでもSiriとか、LINEでやりとるする対話型AIとか、ほかにも似たものはありましたけど。
たとえばなんですが、文学作品でも美術作品でも音楽作品でも、ほかの先人たちの作品があって、その上で生み出されたものであるし、作品ばかりか、人というのは、生まれてこれまでに触れてきた自然や人工物や人間や生物や、あらゆるものに影響されているわけで、DNAを含めて、まったくのオリジナル、素のまんまというのはないとも言えるわけですよね。それは集合知、または共有知といってもいいかもしれません。
AIさんだって、発信してくれる人がいなければ情報を集められないわけですから、だとしたら、個々の人間は生きているだけですごいんだってことにならないでしょうか。もしかして私の書いたことがAIさんの提供する情報の一部になっている「かもしれない」と考えると、むしろうれしいと思ってしまいます。だけど、採用された分だけ報酬があったらもっとうれしいですよね。私のようなお気楽な一般人とは違って、プロとなれば危機感が生まれるのも当然です。だって生活していかなければなりませんから。こんなことを考えていたらベーシックインカムのことがちょっと思い浮かびました。なんだなんだ? こりゃあ、世の中の仕組みが変わっていきそうな予感がします。
ただ、AIさんの弱点(というか個性)は主観を持たないことなんですね。ですから、人間にしかできないことがありまくるってことでもあります。浅学な私では理解できていないことが多すぎて軽はずみなことは言えませんが、AIさんには恐怖を感じるというよりも、今のところめっちゃ期待する派ではありますけど。どうなっていくんでしょうね。わくわく!
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張り切って見始めた「あまちゃん」再放送ですが、すごく楽しくてテンポもいいし、人情味あふれてわくわくします。これから東京に行ってアイドルを目指すんでしたっけ? のんさん、なんてすてきなの! うわさどおりの秀作です。だけど、1週間とたたないうちに早くも見るのがつらくなってきました。もちろん作品に罪はまったくありません。
岩手にかぎらず、日本全国、東京以外はそんなに変わりがないんだと思いますけど、地域の絆が強いほど排他的になりやすくて、誰かがやらかすと、それが地域じゅうのうわさになって、逃げも隠れもできない田舎暮らし。うわー!!!!
一応、私が住むのは県庁所在地で、ほかにも全国あちこち住んだことがありますが、どこもアキが暮らす架空のまち「北三陸市」と似たようなものです。やっぱ私は朝ドラは無理かも。そこをわざとねらってるとわかっていても、見ていると過去がどろどろ流れ出してしまいます。朝ドラは、おいしいけど食べられないアレルギー食品でした。残念!
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「あまちゃん」再放送、めちゃめちゃうれしい! 10年前は朝ドラを見ている余裕なんてなくて、話題になっているとは知りつつも、あちこちほんの数回しか見たことなかったんですよね。「じぇじぇ」は知ってましたけど。再放送は現在3回目を見終わったところで、なにこれ、おもしろい!!!
「あまちゃん」は2013年に放送されたんですよね。2011年に東日本大震災があって、まだ被災地は元気がなかったころだったと思います。私もかなり混乱していました。そんななかで各地で「あまちゃん」に関連するイベントも開かれて、軽快なテーマ曲も話題になりましたよね。
実は私、高校時代は「朝ドラ」を楽しみにするような大人にだけはなりたくないとずっと思っていたんです。朝ドラを見るということは、それが可能な環境にいる女性、つまりは専業主婦になるということだと思っていたから。当時は働く女性VS専業主婦的な話題も多かったと思います。でも、実際に大人になってみたらそんなこと全然ありませんでした。録画もできるし、働き方も自由で柔軟になったし、NHKプラスなるものもできたしで、本当に視聴する選択肢が増えました。
ただ、自分のことを振り返ると、10年前は暮らしを立てていくことに必死で、朝ドラはおろかエンターテインメント全般に触れる心の余裕がまったくなかったんです。自分でもあのころはよくやっていたなという感想しかありません。それができたのは若かったから? でも、それを認めてしまうと今はそうではないということになってしまいますのでなーんかそう言いたくないんですけどね。
これからは、その分を急いで取り返さないと人間としてだめになりそうな気がします。エンタメを軽視していると「お笑い不毛の地」とされる東北のイメージを払拭できませんからね。それは口実だとしても、この春は「あまちゃん」とガンダムシリーズの制覇を目標にしたいと思います。めっちゃ充実しそう!
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『彗星の魔女』めっちゃいいですね。恥ずかしながらガンダムって初めて見たんです。ガンダムってガンプラのイメージが大きかったので、勝手にもっと戦闘色が強いのかなと思っていたんですが、なるほど、こういうふうにも展開できるんだ!
キャラ設定がとてもよいです。主人公に女子を採用して、しかも肌の色がみんなばらばらっていうのは希望にあふれていていいですね。過去作も網羅したくなっちゃいました。こういうアニメを見て育った子だちが大きくなれば、きっと全世界とも全宇宙とも自然に交流できる気がします。
折しも、ジャーナリストの安藤優子さんが椙山女学園大の客員教授になられたニュースが目に留まりました。安藤さんは「社会の女性への『こうあるべき』論は根深いが、自分が『こうありたい』と思うことを諦めないで」と語ったそうですが、『彗星の魔女』では、そんなこと当然といわんばかりに、「こうありたい」という思いに忠実に行動している自由さがベースにあるように思います。それだけ世の中が改善されてきたってことかしら。もはや「こうあるべき」って考えがあったことさえ忘れてしまう世の中に向かってますもんね。
テーマ曲の『祝福』は、これぞYOASOBIさんというリズムで、これもめっちゃすてきです。そういえば、松島かどこかのホテルに母娘でお泊まりしたときに、そのホテルのディナーショーで、リクエストにこたえてお兄さんがピアノを弾いてくださるというので声をかけていただいて、そのとき「怪物」を弾いていただきました。YOASOBIさん、ほんとステキすぎる。
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年度末で忙しくて、テレビ番組を録画してもなかなか見られなくて最近はどんどん消してしまっていたけれど、「女神の教室」だけはちゃんと見ました。ずっと以前にやっていた天海祐希さんの「女王の教室」を連想してかなり気になっていたんですが、法律家を目指す人たちのお話だったんですね。ぎこちないながらも若い俳優さんが頑張ってました。北川景子ちゃん、かわいい! 山田裕貴さんは「ここは今から倫理です。」がめっちゃよかったし、大河でも重役だし、お忙しそうですね。ロースクールってあまりイメージが湧かなかったけれど「こんな感じなんだ」とか、「黙秘権って冤罪防止のためでもあるんだ」とか、「示談に持ち込むことに手腕が発揮されるべきで、裁判にならないほうがいい弁護なんだ」とか、すごい勉強になりました。
「どんな理由があろうと人を裁くのは司法であるべき」というのは本当にそうですね。政治は選挙でしか変えられないのと同じように、事件や事故は司法でしか解決できないし、また、そうしないといけなくて、間違っても自分が鉄槌を下そうなんて思っちゃいけないんですね。
でも、人が人を裁くのって本当に難しいし、怖いなと思います。ちょうど袴田事件のことがニュースになっていましたよね。女神(テミス)さまがいつもすべてを見通していて正しい結論へと導いてくれたらいいんだけど。事件や事故のことについて自分の感想を持つことさえちょっと怖いというか、反対側には全く別の立場の人がいるわけですから、めったなことは口にできません。だから、司法に関わる人はどれほどの心労だろうと思うんですよ。
以前は、キムタクさんのドラマの影響もあってか、法律家のことをもっと違った感じに捉えていたんですよね。強きをくじいてギャフンといわせる正義マンみたいな感じというか、そこが国民に支持されたんでしょうけれどもね。今回のドラマは、実際に起こっているような日常的な問題を扱っていて、地味だけどとてもよかったです。柊木先生や法律家を目指す彼らの姿は作者の願いでもあるだろうけれども、それを実践している法律家が実際に少なからずいらっしゃるんだろうなと思うと、なんだか励まされる思いです。
それに、テミスが持っているのがてんびんだというのがすごく興味深かったです。「正邪を測るてんびん」だそうですが、私はバランスをとっているんじゃないのかなと思ったんですよね。ややもすると善悪を判断して犯罪者に罰を与えるのが司法みたいになりがちだけど、それは違うと思うんです。テミスはいつも、どうすればみんなが住みよい世の中になるかを考えているように思ったんです。人々を憎しみという最も重たい感情から救い出したり、間違いを犯してしまったことへの償いの機会を提供することで、それぞれがまた生きていけるようにするためのものなんじゃないかと、結局、法律ってそこを目指しているわけで、私の解釈は間違っているかもしれませんが、ものすごく考えさせられました。
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『進撃の巨人』のThe Final Season 完結編(前編)がいよいよですね。巨人というと「超大型巨人」のイメージで広く認識されていて、人を食べてしまう巨人だけ見たら「なんのこっちゃ?」となるわけですが、まだお若い諫山さんが構想されたということだと、本当にどれだけ思慮深い方なんだろうと思います。
特に、お話がコペルニクス的転換を迎えるところ、つまり巨人の正体が実はエルディア人だったことが判明してから以降は、まさに世界のありようを写しているというか、「そうきたか」と本当にショックを受けました。
これ、世界中のみんなで一緒に見たらいいと思うんですよね。自分たちは何に怒り、何と闘っているのか、敵とはいったい何なのか。自分が見ている世界がすべてではなくて、立場が違えば見えるものが全く違ってくる、そんなことを深く考えさせられます。本当に超大作になりましたが、しっかりと見届けたいと思います。不規則なアニメの放送となっていることから、かなりご苦労されている様子がうかがえますが、あと少しになりました。応援しています。
大作といえば『キングダム』もすごいです。来年1月からシーズン5ということで、こちらも目が離せません。
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THE RiCECOOKERSさん、かっこよすぎです!『波のゆくさき』は「SPEC」の主題歌だったんですよね。「SPEC」は今となっては懐かしいドラマになりましたが、本当に大好きなドラマです(映画もあるけど)。そしてこの音楽ときたら、まったく色あせてなくて、むしろ近未来的で、世界の刹那を奏でるような不思議なサウンドです。当時、ドラマの終盤でこの曲が流れてくると「ああ、続きは来週かあ」という気持ちになったものでした。
THE RiCECOOKERSさんって4人ともバークリー音楽大学出身ってめちゃくちゃすごくないですか。本拠地がアメリカなんですね。なんていうんだろう、表現される世界観が独特で、路地裏の壁にチョークで描いたペーズリー模様を3Dプリンターで立体化させたみたいな感じがしてすてきです。特に冒頭の「16音符×4 4分休符 16音符×4 4分休符」のところがたまらんです。「タタタタ タタタタ タタタタ タタタタ 」っやつ。
実は『文豪ストレイドッグス』のラストでもこれと同じようなリズムの音楽が一瞬流れるんです。だから、そのたびに『波のゆくさき』を思い出してしまうんですよね。「あっ、SPECだ」って。あれはなんていう曲なんだろう。
THE RiCECOOKERSさん、また日本の映画とかアニメとかドラマに曲を提供してくださらないかしら。2016年から活動休止ってもったいなさすぎます。それとも、いまごろそれぞれもっとダイナミックにご活躍なんでしょうかね。才能あふれすぎてグループの枠におさまらない感じは確かにありますが、なんとも神秘的な彼らです。
ラミパスラミパスルルルルル。
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最近、美容室をかえました。美容室って行くときにちょっと気を使いますよね。間近で顔を見られるから、いつもは3分とかからないお化粧を、つい厚塗りにしてしまったり、美容師さんは気にも留めないんでしょうけれども、勝手にちょっと緊張します。
それ以上に心労となるのが会話です。だんだん慣れてくるとどうしたって髪形以外の世間話になるので、そういうときに、つい心の「タガ」が緩んで愚痴が出たりしてしまって、あとから後悔することも多いです。だから、距離が近くなってきたなと思ったら別の美容師さんにしてリセットしたくなるんです。もちろん美容師さんはよくしてくださるんですが、私は、おたがい、ちょっと慎重になっているぐらいの距離感が好きです。
私はときどき、変なサービス精神から自分を語りすぎることがあって、それというのも、場をもたせるために誰かほかの人のうわさ話になるのがいやだからなんですよね。そうすると、政治や経済の話ってわけにもいかないし、趣味も突拍子もなくてつまらないだろうしで、どうしたって自分のドジ話をするしかないわけで、美容室のあとはどっと疲れます。一人で気を回して一人で疲れてるだけなんですけど。
これはテレビで見たのかネットだったか失念したんですが、へんぴな場所のとある喫茶店の店主さんが初老のおばあさんで、その方は下ネタばっかり連発して常連のお客さんを笑わせるんです。どうして下ネタばっかり言うのかというと、人が集まると誰かの悪口になりがちだから、それだったら下ネタのほうがマシだと思うからとおっしゃっていて、なんか感動したんですよね。私、誤解するところでした。そういう意味でいうと、私のつまらない失敗談も、あらぬうわさ話よりは少しはマシなのかもしれません。
都会では会話をしないことをウリにしている美容室も増えてきているようで、近かったらそういうところに行きたいです。大事なことを伝えたり伝えてもらったりすれば、あとは黙っていても問題ない、むしろそのほうがいいという価値観が「新しいコミュニケーション能力」として世の中に広まったらいいのにな。
世の中には自分とは合わないことも確かにありますが、多様性を認めるとは、感想を持つなということではなくて、うまくやり過ごしたり適切に対処すること、要は「タガ」が緩まなければいいわけなので、沈黙には十分に価値があると思うんですよね。それとも下ネタスキルをつけるとか? これはちょっとハードル高そうです。
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「ウマ娘」がユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされたのが2021年でしたよね。自分的には、今は懐かしいゲームになっちゃいましたけど。当時、年末に候補が発表されたときに「ウマ娘」というワードが自分の生活にかすりもしなかったので、あせってすぐにゲームをダウンロードしました。アニメも第1期は見ましたよ。なるほどね、これは楽しい!
お気に入りはサイレンススズカちゃん。自分の中では断トツです。なんでも「逃げ馬」なのだそうで、最初からぶっちぎりで速いから爽快感がたまりません。だけど、実話としての悲劇は本当に泣けてしまいます・・・
レースで1位になるとステージのセンターを取れるんですよね。「Make debut!」を何度も聴いているうちに、自分でも踊れそうな気がしてちょっとまねして踊ってみましたけど、ムリムリムリ、全然できません。ダンスって難しい。おばさんがドタドタ踊ってるところを俯瞰してみたら、自分のことが情けなくなりました。
しばらく夢中になったけど、Cygamesさんのゲームは、クオリティーが高いせいなのか、容量が大きくてなかなか厳しくて、半年ぐらいで削除してしまいましたけど。でも、競馬のイメージはあれでぐーっとアップしましたよね。
自分が好きなアニメにあまり女子が主人公なものがなくて、これはいったいどうしたことだろうと思います。女子というとほとんど恋愛要素が入ってくるので、なんだかなって。そんな中にあって『ウマ娘 プリティーダービー』は純粋に戦う姿が美しくて、ゲームから生まれたからかもしれませんが、尊いお話だと思います。
自分が知らないだけで、実は女子がキレッキレに活躍するお話がたくさんあるのかもしれませんし、もちろん、女子が主人公ではないことに全く異存はないわけですけど、女子だってヒーローに(あえてヒロインではなく)なりたいんだと思うんですよね。いやいや、それは建前で、本音としては、重責を引き受けたらあれもこれもはできなくなっちゃうから困るってことなんだろうし。女子を描くのは難しい。
追記
おっと、いましたね。キレッキレかつ愛すべき女子といったらが『PSYCHO-PASS』の常守朱ちゃんかな。100年後には本当に「シビュラシステム」が導入されていたりして? 少年漫画が少年だけのものじゃなくなったことがもたらす影響は計り知れません。もはや少年というのは男子のことではなくなりましたもんね。
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タイムリープとか転生もののアニメがたくさんあって、命を落とした瞬間に生まれ変わって魔法が使えたり、科学の力で時間を戻したり、異世界に行って活躍したり、どれもワクワクして見入ってしまいますが、それだけ人生をやり直せたらいいなって考えている人が多いってことなんでしょうね。予行演習なしで人生を歩むのはみんな同じこと、だから、たまたまうまくいったことと同じ数だけ、たままたうまくいかなかったことがあるってことになりますもんね。
主人公に異能を持たせるのは、特別な自分になりたい気持ちの表れでしょうか。私にとっては、絵が上手な人やお話を創作できる人はすばらしい異能だし、電気の配線ができたり水道の水漏れを直してくれる人たちも、それだけで十分に異能です。お洋服も作れないし作物も育てられない自分でもなんとか生きていけるのは、異能を持った人で世の中があふれているからですもんね。
確かに、あの日、あの時、あの判断が悪かったと振り返ったら、その時点に戻ってそれを取り消したくなりますけど、もしも「世界線」を変えたなら、変えたくないところまで変わってしまうのが難しいところ。どうしたって「まゆしー」が死んじゃいます。つまり、どんな不幸なことが起こっても、その先ずっと不幸ばかりじゃないってことでしょうか。
自分も異能が使えたらと思うこともあるけれど、異能力者はみんな人類を守る立場になるし、ヒーローはヒーローならではの苦悩がありますもんね。・・・いかーん。完全にアニメの見すぎでしょ。異能力を持つよりも、自分の中の「まゆしー」が死んでしまわないように大切に毎日を過ごすほうが大事ですもんね。『シュタインズゲート』の「まゆしー」って日常の中にあるかけがえのない幸せの象徴だと思うんですよね。トゥットルー!
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もう20年ぐらい前だと思いますが、佐世保で女子児童が同級生の女の子を刺殺してしまった事件があったんですが、その子が語ったとされる動機に「父子家庭なのがうらやましかった」というのがあって衝撃を受けた記憶があります。恵まれた成育環境をうらやましがるんじゃなくて逆なのかと。ずっとそのことが引っかかっていたので年月を経ても鮮明に思い出すわけですが、今、検索をかけてみたら、wikiにはそのような動機は書いてありませんでした。その後の調べで別な動機が判明したんでしょうかね。
また、つい最近、障害がありつつも頑張っている方のツイートに対して、「自分も乗り越えなくてはならない障害が欲しい」的なリプライがあってびっくりしました。実際のことと目に見えることは違っているんだろうし、その人がその人たるにはほかにさまざまな要因があるんだろうと思いますが、一般的に不利だと思われることに憧れを抱く人もいるんだなって思ったんですよね。もしかするとその方のおっしゃる障害とは、広い意味での障害のことだったのかもしれませんが。
恵まれていることに対する劣等感とかうしろめたさとか、もしもそういうものがあるとしたら、本当に人間って複雑な存在だなと思います。確かに困難を乗り越えるほうが目標が明確になりますもんね。自分がほかの誰でもない自分であることの欲求は、ときに自分や誰かを傷つけてしまうほど強いものなのかなって考えてみたりしました。それは自傷行為にも似ていて、だとしても行動に移すのは思いとどまってほしいですけれども。
翻って自分のことを鑑みてみると、確かに私も「自分がもっと困ればいいのに」と他人事のように思うことがあります。それは、そうならないと本気で何か事を起こすことができない自堕落な自分のことをよく知っているから。それと、わずかながらに、せっぱ詰まったときに頑張れた経験がそうさせているのかもしれません。また同じように頑張れるかというとそうではない可能性が高いのに、浅はかな考えだとは思いますが。
よく「火事場の馬鹿力」なんていいますけど、あれって「危急反応」のことですよね。生命の危機に直面したとき、アドレナリンが出まくって、動物なら威嚇したり闘争したり、まっしぐらに逃走したり、信じられないエネルギーが湧き起こります。「窮すれば通ず」などともいいますが、そういうときに物事って一気に階段を駆け上るんですよね。コロナ禍はまさに社会的な危機で、急激に世の中が変わりました。
根がぐうたらなので、面倒なことは回避したい気持ちでいっぱいですし、苦労という苦労はもれなくしてきたつもりですが、また何かないとこのままずっと事を成せぬままになりそうで、そのあたりがちょっと怖いです。でも、大丈夫。自分で求めなくても困難はいつだって勝手にすり寄ってきますから。それは経験的に間違いのないこと。今のうちにエネルギーを蓄えておくことにしましょうか。はたして次の危機を乗り越えられる体力があるかどうか、かなりあやしいですけれど。それとも、もう玄関先までやってきているのに気づいてないだけで、あしたあたりドカーンとか? それもやだなあ。やっぱ遠慮しときます。まずは体力づくりからダー!
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数年前、ご縁があって、ある老婦人にお会いしました。印象深かったのは、その方がお召しになっていたワンピースです。品のいい立ち襟、小さいくるみボタンがたくさん並んだ前身頃、かわいらしいパフスリーブ、ふんだんにギャザーを寄せたウエスト、袖口にはさりげなくフリルが配されていて、それが「ローラ・アシュレー」だとすぐにわかりました。
店頭で見かけたことはあるけれど、実際にお召しになっている方とお会いするのは初めてで、それもご年配の方だったのでちょっと驚いたというか、お話の内容よりワンピースにばかり目を奪われたのを思い出します。もしかしたら、このご婦人のご自宅は猫足の家具であふれていて、壁にはボーダーをあしらって、上質な小花のカーテンが豪華なカーテンボックスに納まっているのかしら、そんなふうにも思いました。団塊の世代ならではというのでしょうか、お姿にも自信に満ちた輝かしさがおありでした。
私自身は、エレガントなヨーロピアンスタイルではなくて、武骨さのあるアメリカンカントリーに憧れがあって、以前、NHKさんで『アンという名の少女』を放送してくださったときは、グリーンゲーブルズの家や家具に釘付けになりました。遠い昔に『赤毛のアン』を読んだときには、家の内装や家具なんて考えもしませんでしたが、ドラマではつましく気高く生きる人々が日常使いにしている家具が丁寧に描かれていたんですね。白いドア、ホワイトウォッシュの壁板、上品なコンソール、ロッキングチェアー、リビングではなくダイニングが生活の中心で、食卓ではアンはいつも2人掛けの背もたれなしベンチに座ります。お手本にしたくなるような堅実な暮らしぶりでした。
実は先週、白い大きめのレース襟が施されたブラウスを買ってしまったんです。もちろんネットショッピングですけど、すてきすぎてどうしても我慢できませんでした。「こんなフリフリなお洋服、いまどき小学生でも着ないでしょうよ」と自分でも思ったんですが、いつかお会いしたあのご婦人のことを思い出して、「好きなものを着るってすてきよね」って無理やり自分を納得させました。
年齢や性別によらず、誰が何を好きになってもいい時代、私たちは「多様性」という免罪符を手に入れてしまいましたからね。あんまり暴走しないようにしないといけませんけど。笑われても平気になったら怖いものはありません。アンが「袖のふくらんだ服」に強い憧れがあったように、私はレースやフリルのたぐいになぜか心奪われてしまいます。
『赤毛のアン』が出版されたのは1908年だと知ってちょっとびっくりしました。当時としたら本当に革命的な本だったでしょうね。それから100年以上たって、今では街じゅうにアンがあふれています。アンにあこがれた世代が次のアンになって、また次のアンへと引き継いで、少しずつ世の中が変わってきて今があるってことですから。まだまだこれから変わっていく余地はありまくりですけれどもね。「夢みる乙女とキャリアな女性は反対側にいるんじゃなくて、同じ人間の中にいつも同居している」、私はアンからそんなことを教わった気がします。
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この曲、涙なしには聴けません。もしも泣かずに聴けたなら、きっとまだ大人になってないってことですよね。今はまだポケモンのゲームに熱中している子たちも、やがて大人になってこれを聴いたら、やっぱり同じように泣いちゃうに決まってます。大人と子どもの境目って何歳ぐらいだろう。
今日の夕方、「アニメ『ポケモン』主人公交代へ」というニュースが飛び込んできて本当にびっくりしました。サトシは永遠の少年だと思っていましたから。サトシも「もう一度子どもに戻ってみたい」年齢にさしかかったってことかしら。そうすると気になるのが相棒のこと。ええーっ、ピカチュウじゃなくて新しいキャラクターになるの??? なんだかそわそわします。いまごろ世界中でサトシとピカチュウにお別れしなければいけないことを知った子たちが嘆き悲しんでいるだろうな。サトシもピカチュウも幸せだね。
どうしてポケットモンスターにそんなに思い入れがあるかというと、ポケモンの歴史は子育ての歴史だから。毎年、クリスマスが近づくと決まって新作が出るから、慌ててポケモンのゲームソフトを用意したっけ。ダウンロード版がなかったころは入手できなかったらどうしようと戦々恐々としていたけど、そんなこともいい思い出です。今年の新作は自分で買ったようですから。
サトシくん、ピカチュウ、うちの子どもたちと仲よくしてくれて本当にありがとう。シッターまでさせちゃったね。留守番ばかりさせていたからどれだけ助けられたかわかりません。心から感謝しています。ピカチュウはもちろん永遠のヒーロー&アイドルだけど、ゼニガメもヒトカゲもフシギダネも、みんな末永くお元気で! ありがとー!!!
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こ、これは!!!「ユーリ!!! 」の「Yuri on ICE」ではないですか!!!「ほろよい」のCMで使われてるんですね。びっくりしちゃいました。なぜか歌がのっかっています。コラボなんですね。確かに購買層の女子心をくすぐるし、アニメーションやCGもいい感じですねえ!!!だけど、だけど、やっぱり個人的にはピアノソロがいいな。(あくまで個人的な感想です)ちなみに、私は「ほろよい」の中では白いやつがいちばん好きです。
「Yuri on ICE」のあの曲といったら、祈りに似た、決意にも似た、喜びにも似た、静かな情熱にあふれる名曲ですよね。もう一度、アニメを見たくなっちゃいました。平昌オリンピックのとき、木原&須崎ペアがこの曲を使って話題をさらいましたが、今度は羽生結弦くんが舞ってくださらないかしら。繊細さといい、神聖さといい、湧き上がる熱意といい、イメージぴったりですもんね。ほんと、いつか、いつかでいいですから、どうぞよろしくお願いします。
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東京の宇宙ベンチャー「ispace」さんの月面着陸船が打ち上げられたというニュースに心躍ります。月面着陸といったらすぐに『宇宙兄弟』が思い起こされますが、 もしかしてエアー・ムッタくんとエアー・ヒビトくんが乗っていたりして?
『宇宙兄弟』では、ヒビトくんを乗せた月面着陸船が打ち上げられたのはたしか2026年の設定だったはず。せりかさんがお父さんのお墓の前に置いた日記帳の表紙に2025年と書いてあったのは鮮明に覚えていて、その翌年のことでしたよね。(ちょっと自信がないけど) 今年は2022年ですから、絶対寄せてきてると思っちゃいました。やっぱり宇宙もリモートが主になるんでしょうか。
それにしても、ムッタくんってつくづくいいキャラクターですよね。適度にイケメンすぎないところがたまらんです。(実写は見てなかったけど、小栗旬さんだったんですね。ムッちゃん、イケメンになってた!) 冷静なのにおっちょこちょいで、ハートが熱くて誠実で、キレッキレに賢いのに残念さがあるところがなんともいとおしい。あんな人間になれたらいいなって本気で思います。
着陸船は来年4月末に月面着陸にトライするとのこと、重力を使って月に向かうってなんかすごい。月もこれからにぎやかになりそうですね。やばっ、袴田武史社長さんのお顔がムッタくんに見えてきました。ちょっとだけ似てらっしゃらないですか? めちゃくちゃすごいお方なんでしょうが、なんだかほっこりします。陰ながら応援させていただきますね……って口だけ応援なんて無責任なものですね。こういうときドーンと出資したりできたらめっちゃかっこいい一般人になれたんだけどなあ。ざんねん。宇宙ビジネスってめちゃくちゃ伸びしろあるやつですもんね。
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「塗り絵」というと子ども向けの玩具だったり介護施設なんかをイメージしてしまいますが、とっても芸術的な「アート塗り絵」もありますよね。同じ台紙なのにこれほどまで変わってしまうのかというくらい感激します。
最近は、デジタルの力で古いモノクロの写真や映像を着色して理解を深めてもらおうという取り組みなどもあるようで、そうすると一気に躍動感あふれて、色彩の力ってすごいなと思います。でも、それってやっぱり実際の色とは違っている可能性があるわけですよね。
何か事件が起こると、近所の人やかつてのご友人や知り合いの方がインタビューに応じられていて、どこから出てくるんだろうという写真なんかもさらされて、加害者はもともと素行不良だったみたいな報道のされ方に接することがありますが、それって必要な情報なんでしょうか。まるで最初から記事の原稿が決められていて、それに合うような内容を選んでウラ取りをしているみたいに感じられてしまいます。
確かに、わかりやすいストーリーに仕立てたりほうが興味を持ってもらえるのかもしれませんが、個人的には違和感しかありません。現実は物語みたいに単純じゃないと思うんですよね。とはいいつつも「こっちだって雑誌を売らなきゃいけないし、視聴率を上げなないといけないんだよ!」という担当記者さんの声が聞こえてきそうで、確かにそれもそうなんだろうなとも思います。
だったら、尾ひれがついていない情報のほうが信頼されて記事へのアクセス数が向上するとなれば、記者さんたちも視点を変えてやりがいのある取材ができるし、読者や視聴者もバイアスをかけずに物事を見られるようになるしで、Win-Winになるような気がします。どっちが鶏でどっちが卵かわかりませんが、まずは私自身がきちんと選んで記事や番組を拝見することを心がけないとですね。社会という台紙の塗り絵に間違った色や想像の色を塗るくらいなら、空白のままがいいんじゃないでしょうか。
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レッドカップをコンプリートしました。今年のテーマは「Let's Be a Santa(みんなサンタになろう)」だそうだけど、子どもがサンタさんを信じているうちがクリスマスが最も楽しい時期ですよね。それ以降はクリスマスもただの日常になっちゃいます。
サンタさんに願い事をして靴下をぶら下げるより、自分がサンタさんになるほうが何倍も楽しいって大人になってみるとわかります。大人も案外悪くないものです。
それにしても、スタバってどこまで甘い路線を追求するんだろう。ラテとドリップコーヒー以外の飲み物にたまにチャレンジすると「うへー、あんまっ!」ってなります。コンビニの飲み物は甘さ控えめの傾向だからよけいに際立ちますよね。これもお国柄ってことなのかしら。
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自分への応援歌ってありますよね。これは坂道くんの自分応援歌だけど、体調不良の田所先輩を引っ張って、一緒に歌いながら坂を登っていくシーンが泣けるし笑えるしで本当に大好き! 一時期、自分への応援歌をこれにしてみようかなと思ったけど、私はどうも力が入りませんでした。でも、確かに笑顔になれます。
私はスポーツは全般的にキライなのに、アニメとなると夢中になっちゃうのはどうしてだろう。スポーツに限定すれば、いちばん好きなのは「ハイキュー!!」だけど、「ピンポン」もサイコー、「ユーリ!!!」もステキ、「黒子のバスケ」はみんなカッコいいし、「ツルネ」も渋くていいよね。弓道はちょっとやってみたいです。
「弱虫ペダル」の坂道くんはアニメ大好きのオタクキャラで、体育の成績は「D」だって言ってたよね。ちょっと元気づけられます。運動能力が高くても低くても、体を動かしたら気持ちいいっていうのはみんな共通のはず。私をこんなふうにしてしまったのはみんな体育の授業のせい。(ひとのせいにするんかーい!)
毎日1回は「ラブ☆ヒメ」を口ずさんでしまう毎日だったらいいな。仕事していても、楽しいときがやっぱりいちばん効率よく進むもんね。
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検索サイトに広告的に表示されている生活ネタの漫画の数々。つい開いて読んでしまうからなのか、けっこうな頻度でクリックしやすい位置に上がってきます。ほっこりしたり笑わせてもらったりしてますが、なかには「ママ友問題」「嫁姑問題」「夫婦の不仲」「職場の人間関係」「接客トラブル」などなど、どよーんというか、「あららー、大変だねえ」というものもあります。自分がその渦中にいたら読んでスッキリしたかもしれないけれど、今はおかげさまでそういった問題は抱えてないので、そういうときの興味の対象はひたすらそれを描いた「中の人」のことになってしまいます。
この人は深い悩みを抱えているんだろうか、ストレスがたまって描いたんだろうか、それとも収入を得るためにウケそうなネタを探した結果だろうか、契約会社から「このネタで」と提示されて描いてるんだろうか、苦しいときは、できるだけその状況から離れたり忘れたりする時間が長いほうがいいのに、それを仕事にしちゃうと悪化しないんだろうか、とかね、そんなことが気になってしまうんです。もちろん仕事として割り切って描いてるんでしょうけどね。
生きて誰かと関わっていくかぎり、その種のモヤモヤ心のザラつきは避けられませんよね。でも、そこでしか生まれないうれしいことや楽しいこともあるしで、加減が難しい。何が起こるか、はたまた何も起こらないか、毎日おみくじを引いているようなもので、何も起こらない「中吉」よりも、てこずっても何かが起こる「凶」のほうがマシかなと思うことさえあったりします。
そんな中で、誰にだって「どうかしちゃう」時期がありますよね。ただ、人によってとる行動が違うだけ。そのことをわきまえていれば、ちょっとやらかしちゃった人のことも「あなた、どうかしちゃってたのね」って慮ることができる気がします。どこを切り取っても聖人君子なんて不可能です。私なら聖人君子に変身できるのは、連続してだとせいぜい5分ってところかな。君子さまだって家では不機嫌で家族から煙たがられていたりして? みんなへたれな弱き者たち。だからこそ「あなたは本当は弱い」とかいう安いドラマのワンシーンにじーんとしちゃうんでしょうね。
漫画の中でも、トラブルに遭遇してキレてギャフンといわせて読者に同意を求めて終わりじゃなくて、相手の立場に気づく展開だと、描いてる「中の人」も救われるんでしょうけれども。どうぞご自愛ください。
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動画共有プラットフォームといえばなんといってもYouTubeですよね。Googleさん所有のものになってから、Chromeのツールバーに表示されるようになったし、Chromecastを使えばそのままインターネットテレビで視聴できるしで、ますます便利になりました。すっかり日常に浸透してるって感じですよね。
小学生の「なりたい職業ランキング」ではユーチューバーが常に上位に入って、その人気ぶりがうかがえます。一方で、ユーチューバーと聞いただけで顔をしかめる人もいらっしゃいますが、では、立派な職業に就いている大人の方々が、こんなふうに誰でもアクセスできて、なりふりかまわずチャレンジできる場を若者たちに提供してきたのかというと、残念ながらそうではないと思います。
もちろん、あまり再生回数が伸びていない動画に出合うこともあります。たくさんの投稿動画がありますから、それは不思議なことでも何でもありませんし、むしろ日の目を見ない動画のほうが多いのではないでしょうか。先日、たまたま拝見した動画もそんな動画のひとつでした。
コーヒー好きの私が何気なく見たのは、「10代? それとも20代かしら?」と思う若い男性の動画でした。内容は、カフェに入店してコーヒーを注文して、テイクアウトしたコーヒーを飲んで感想を述べるというごく簡単なもので、傍らには親御さんらしき姿もありました。少し緊張しながら、うつむき加減で、それでも一生懸命に解説している姿に、思わず「がんばれ!」とグーの手に力が入りました。
なぜなら、その時、私の中であるストーリーが浮かんだからです。この若者、もしかしたら、一度、社会からはじき飛ばされてしまったのではないかしら、苦しい日々を過ごしながら、自分にできることを一生懸命に考えて、再び社会に戻る第一歩として動画撮影を思いついたのではないかしら、そんなふうに思えたんです。
もちろん、これは私の勝手な妄想で、違っていたら失礼極まりないことではありますが、自分自身も似たような経験をしているからでしょうか、嗅覚が反応してしまったんですね。もちろん真偽のほどは定かではありません。ただ、その若者がYouTubeに動画をアップすることには、再生回数とか収益とか、そんなものよりもっと大切な意味があったということだけは確かだと思います。
インターネット上には都会の懐の広さのようなものを感じます。フォロワー数が少なくても、アクセス数が上がらなくても、再生回数が伸びなくても、自分の勝手にさせてくれますし、「考えが甘いよ」とか「外でアルバイトしたほうがいいんじゃないの?」なんてありがたい助言をするようなまねはしない優しさがあります。それは本人が自分自身で考えることだからです。
物事には何にでもよい面と悪い面がありますから、ネット社会を全肯定するつもりもありませんが、リアルではご近所の目を気にしながら息の詰まるような生活を送っている人が多いのも事実です。(私か?) そんな人たちにとって、YouTubeだけじゃなくて、これから始まるメタな世界が救済の場所になればいいなと思っています。
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週2〜3回のペースで行くようになってしまったスターバックスコーヒー。きょうはお店のお姉さんにかわいいサインを書いてもらいました。ドライブスルーで書いてもらえるなんて思ってもみなかったので超うれしい!
いつもオーダーするのはホットラテのベンティ!(フォームミルク増量) ベンティってことは590ミリリットルだからめっちゃ大きいんですけど、これをゆっくり飲みながら仕事するのが楽しみなんですよね。冷めてもおいしいし。ただ、カフェイン耐性つきすぎてちょっとまずいかも。なんなら飲んだ直後でも爆睡できます。
自分の家から決して近いとは言いがたいのに、ついつい通ってしまうってことは、何か特別なものが入っているんでしょうか。とりこにしてやまない魔法の粉? Suica払いにしてたけど、アプリの利用がお得だと何度も店員さんにすすめていただいてます。そうだね。電子決済をいろいろ利用しすぎて、これ以上、種類を増やすのはどうかなとためらっていたけど、アプリ入れておいしくお得に通っちゃおうかな。サインももらったことだしね(^^) ニックネーム設定で推し活するのがはやりみたいだし。
なんていうか、アイドルとか有名人じゃなくて普通のアルバイト(?)のお嬢さんなのに、「Thanks」の文字でこんなに人を幸せにできるってすごいと思います。こんなふうに、みんなができる範囲で少しの幸せを分けてあげられるようにすればいいんだね。「私にもできることが何かあるはず!」って思えたことだけでも大きなものをもらっちゃいました。
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高橋優くんがずっと好きで、アルバムをアップルミュージックに入れてカーオーディオにつないで車内で聴いています。優くん、かわいいですね。今はだいぶお兄さんぽくなってきて、今日も悩める思春期の子たちを励ましていることでしょう。まだ最近の曲まで網羅できていませんが、もうちょっと待っててね!
なんとなくですが、『耳をすませば』の雫ちゃんも彼の曲を聴いているような気がするんです。好みが同じような気が…… 雫ちゃんが猫のムーン相手につぶやきますよね。「本を読んでもね、このごろ前みたいにワクワクしないんだ。こんなふうにうまくいきっこないって心の中ですぐ誰かが言うんだよね。かわいくないよね」って。めっちゃわかります。
今度、「耳をすませば」の10年後のストーリーが実写化されるんですよね。10月14日に公開だとか。ちょっと気になります。「雫ちゃんはお話の中の人物だから、あれこれありながらもちゃんとうまくいくんでしょ?」って雫ちゃんにちょっと意地悪なことを言いたくなっちゃいますけどね。
悩むことや迷うことは思春期の特権じゃなくて、一生選択の連続です。だんだん年を重ねていくと、うまくいかなかった経験も増えていって、そのうちなにかにつけ「どうせうまくいきっこない」ってすぐ心の中の誰かが言うようになっちゃうんです。悲しいことに。ただ、一か八かで始めた仕事をなんとか軌道に乗せられたことだけは、唯一の「私にもできたこと」かな。
ただ、この期に及んでまだチャレンジできていなことがあって、それなら「うまくいかない」をデフォルトにしちゃったらどうだろうと思うようになりました。うまくいかなくても自分が楽しかったらいい、夢中になった時間があればいい、一生懸命になれるものがあるだけでいいって、そこまでハードルを下げると案外大丈夫なのかもしれないですよね。
優くんの曲を聴いていると少し勇気が湧いてきます。きっと人を癒やす才能の持ち主なんでしょうね。尊敬します。さあてと、気持ちが上向いたときがチャンス。いつもいつもやる気に満ちあふれてるってわけにいかないですからね。
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今、「笑わない数学」をやってますよね。毎回録画して見ていて、まだたまった録画を見きれていないけれど。よくわからないけどおもしろい! よく「生物をやろうとすると化学に、化学をやろうとすると物理に、物理をやろうとすると数学に、数学をやろうとすると哲学になる」というけど、ほんとだね。数学は哲学だったんだ。
理系の人の「素数萌え」はちょっと理解できなくて、私はどっちかというと割り切れる数、それも偶数のほうが愛着がある感じがするけど、でも、「素数だ!」と叫んで理系人のまねをしてみたい憧れはあったりします。だから、いつか口にしてみたい言葉としてストックしているんですけど、いまだ出番がありません。例えば79が出てきたときに、「あれ? これってて素数? あれ?あれ?」って一瞬ためらっちゃうのですぐに言えないんですよ。計算おそっ! 暗記しなくちゃ。
好きじゃなかった数学は、意味もわからずひたすら公式の暗記で大学受験まで乗り切ってきたわけだけど、その公式を獲得するまでには大変な苦労があったんだね。日常生活でも「最初からこうしていればよかったのに」って思うことがたくさんあるけど、それは答えがわかったから言えることであって、そこに至る紆余曲折のくねくね曲がった道は、数学的にいえば「直線」で図式化される、いわば通らなければならない道だったってことなのかな。
よく、過去の人が現代にワープするお話とかあるけれど、実際には無理だと思うんだよね。現代の1日の情報量は江戸時代の1年分とかいわれるし、使いこなさなければならないツールも多種多様で、おまけに数式や定理や法律や契約にあふれていて、DNAをぶっ飛ばして江戸時代の人が現代に出現したら病んでしまいそう。そんな現代を当たり前のように生きている私たちって、メイちゃんじゃないけど「泣かないよ。えらい?」だよねえ。もしかして、それだけでもう立派なことなのかもね。
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お花を買いました。コンビニで、どれも同じように組み合わされたお花の中から、それでも母の好きだった赤紫が入っているものをチョイスして。こんなにコンビニエンスにお盆を済ませてしまっていいのかしら。
お盆とお彼岸の時期限定ですが、コンビニで生花を取り扱ってくれるのはとてもありがたいです。店舗にもよりますが、需要があるってことなんでしょうね。以前、よく利用していた近くのお花屋さんは閉店してしまったし、最寄りのスーパーは新装開店のために工事中だし、早起きして産直市場で農家さんが持ち込んでくださったお花を買えばいいんだけど、お盆の時期は、毎年、駐車スペースがなくて苦労するので、今年はコンビニで買うことにしたんですね。思ってもみなかったほどに早く逝ってしまった母は「しょうがないわね」と苦笑いするに違いないけど、あとに続いた父は静かに「いいよいいよ。十分だ」と言ってくれそうな気がします。
同級生の中には親御さんの介護に突入してしまった人もいるけれど、私は介護を語れません。その少しばかりの気楽さが、逆にとっても後ろめたくて、なんとなくですが、自分はまともな最期は迎えられないような気がしてしまいます。自分のことは自分ではみとれないから考えてもしかたないけど、せめて、できるだけ身辺をきれいにしてから逝きたいものだと思います。
もしも、タッチの差で私じゃないほかの人間が誕生していたら、その子のことを当たり前のように両親はかわいがっただろうし、むしろ、その子のほうが人生を上手に生きられたんじゃないか、両親のことをもっと大事にできたんじゃないかとか、そんなことを考えるお盆です。
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話題になってるACの寛容ラップ、なんかほっこりしますよね。実は私も似たような経験があるんです。
ずっと前のことなんですけど、コンビニの駐車場で子どもを車のベビーシートに乗せてドアを閉めて、自分は反対側にまわって運転席に乗り込んだところで、コワモテのお兄さんが近づいてきたんです。「あれ? なんか私、気にさわることしちゃったのかな。あれ、あれ、あれ? どうしよう、どうしよう」って思ってたら、「助手席、半ドアだよ。あぶねーよ」って教えてくれたんです。冗談抜きで地面に頭をこすりつけてお礼を言いたいくらいありがたかったです。そんなことを思い出しました。あのお兄ちゃんに幸あれ!(今はおじさんかな?)
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俳優さんで誰がいちばん好きかというと、女性では断トツで長澤まさみちゃんです。そして、彼女の出演した作品で最も好きなのは『コンフィデンスマンjp』です。映画もどれも好きですが、テレビドラマもとっても楽しく拝見してました。
ドラマの冒頭では、いつもテーマに合った名言が紹介されて、それからお話が始まっていくんですが、私が忘れられないのは、たぶん「家族編」だったと思うんですが、マザーテレサの言葉です。
「世界平和のために何ができるかですって? 家に帰ってあなたの家族を愛しなさい」
安倍さんが亡くなってしまって本当に驚きましたし、とても悲しく残念な気持ちになりました。動揺で仕事が手につかないというか、まさか日本でこんなことが起こるなんてという驚きと悲しみがまざった灰色の空気を吸っているみたいに苦しくて、これは皆さん同じように感じられたことと思います。
もちろん元首相ということでの衝撃も大きかったわけですが、ここのところ、自分はもうどうなってもいいと自暴自棄になった末の事件が多いような気がして、ネット上でははこういった「失うものが何もない人」のことを「無敵の人」と呼ぶそうですが、なんとも複雑な思いに駆られます。
事件が起こると一斉に犯人たたきの声があがって、それは当然そうなるだろうなとも思いますし、被害者やご家族、場合によってはご遺族の方の心情を思うと胸が張り裂けそうになります。もちろん私が関係者だったらきっと怒りで我を忘れることでしょう。
でも、たまたま被害者にならなかった私たちにできることは、犯人たたきをすることではなくて、少なくても自分の家族や知り合いの中に追いつめられてしまっている人がいないかどうか心を配ることなんだと思います。世界の平和も小さなところから始まるし、それをおろそかにしていては世界平和なんて語れないってことですよね。大切なことなので2回書いて自分の心に留めたいと思います。
「世界平和のために何ができるかですって? 家に帰ってあなたの家族を愛しなさい」
追記
日にちがたって安倍さんを撃ってしまった彼がむしろ神格化されていて、そうなるのもすごくわかるんですけど、一方で、それはそれで危うい感じもしています。難しいですよね。ひとつ言えることは、私は人を裁く仕事ができるほどの学力がなくてよかったということでしょうか。関係する皆様に敬意を表したいと思います。人が人を裁くことってどれほどのものだろうと思うんですよね。
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↑すみません。貼らせていただきました。
まふまふさん、ゆっくり休んで、また元気に戻ってきてほしいです。活動休止宣言から少したちましたが、体調はいかがでしょうか。早く元気になられてくださいね。私は音楽に全然詳しくないし、語るものは何も持っていませんが、「ボーカロイド」が話題を集めていたころは少し聴いていて、その後、「歌い手さん」という存在を知ったのはまふまふさんが最初でした。「ニコ動」をあんま見てなくて、すっかり若者枠じゃなくなっちゃってるのでごめんなさい。拝聴したときは、曲の衝撃ももちろんですが、これが歌えちゃうんだ! というすごさにただただ圧倒されました。
この曲、「僕らは命に嫌われている」という叫びもものすごくわかるし、時代を動かす若者ならではの持て余すほどのエネルギーにあふれていますよね。「サイエンスQ」で、思春期は10代で終わっちゃうんじゃなくて、実は30歳ぐらいまで続いて、そのときのむこうみずな行動が世の中を発展させてきた説を解説していましたが、確かに既存の枠組みに収まっているおりこうさんばかりだったら進展なんてありえないと思いました。
曲を聴いていると、つられて私も何か叫びたくなるんですけど、もしかしてそれは命に嫌われているんじゃなくて、時代がまだ求められる姿に追いついていないってことなのかなと思います。テレビでやってるからじゃないですけど、それこそ鎌倉時代だったら、人をあやめることは武勇伝として語らこそすれ、彼らのことを野蛮で下品な極悪人とは呼ばないわけで、それに比べたらいまはよほどまともなわけで、やがて世の中は人が思い描く方向に勝手に少しずつ変わっていくと思うんですよね。
『鎌倉殿の…』の中では、ドラマということを差し引いても、都合の悪い人を次々と「粛清」してしまうのがひたすら恐ろしいですが、令和の時代になっても、いまだに「気に入らない罪」みたいなものが残っているようで、それがとても残念です。もしも誰かに「あんたさ、なんか気に入らないんだよ」っていわれたらどうすればいいんでしょうか。どうしようもできないですよね。
『進撃の巨人』のアルミンがアニに言ってました。「『いい人』か・・それは、その言い方は、僕はあまり好きじゃないんだ。だって、それって自分に都合のいい人のことをそう呼んでるだけのような気がするから」って。確かに、24時間、365日、誰に対しても優しくできたら、かえって何か裏があるようにすら思います。街角でしつこい勧誘をされたら、無視して早足で立ち去るのも当たり前ですよね。その部分だけ切り取って「冷たい人」というのはおかしな話です。
こんな私の人生だって、上澄みのいいところだけ慎重につなげれば「充実したそこそこ楽しい人生」になるし、悪いところだけつなげれば「悲惨でみじめで恥ずかしい人生」になるわけで、それがごちゃごちゃまざっているのが普通ですよね。それと同じなんじゃないかなって思います。どちらもワンサイド・オブ・ミーってことなわけで。こうやってもっともらしいこと書いてる自分も私だし、お料理めんどくさー、お風呂に入るのめんどくさー、なんなら生きてることすらめんどくさーっていうのもまたまぎれもなく自分なんですよね。
人は一人では生きていけなくて、そうなると人のことで悩むのは避けられないのも事実なので、できるだけセルフコントロールして気分を安定させて過ごしたいと思っていますが、うまくいかないこともありますよね。でも、私、漁師さんのお話で聞いたことがあるんです。海に投げ出されてしまってなんとか頑張って浮かんでいるとき、「もうだめかも」ってふとよぎったその瞬間に体が海底へとどんどん沈んでいくんですって。だから、日常生活においても、かっこわるくてもジタバタしていれば、やがてつかめる流木がきっと見つかるんだと思います。『アラジン』のジーニーも言ってますよね、「捨てばちにはなるなよ」って。
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やりました! 「あつ森」の魚図鑑コンプリートです! ロウニンアジが残っていたんですが、根気よく桟橋で餌をまいてようやく釣れて「金のつりざお」を入手しました。うれしい!!! 「今になってやっとか?」と思われそうですが、仕事がありますし、休憩時間にこつこつと、これでもかなりがんばったんですよ。
「あつ森」をやってると生きものの名前に詳しくなりますよね。昆虫もそうですが、魚もいっぱい種類があるし、釣り上げるときにジョイコンが振動するので迫力満点です。「おっ!」と思うとスズキ、「おっ!」と思うとブラックバスというのはあるあるですけどね。
お魚は全部で80種類いて、池ではライギョやニシキゴイ、川ではスッポンやカミツキガメのほか、ゴールデントラウトや、幻のイトウも釣れます。そして海釣りは、特に夏の季節がすごいことになっていて、シュモクザメやジンベイザメのほか、マンボウなんかが釣れちゃうんですよ。雨の日に釣れるシーラカンスもたまりません。
そうそう、春にはリュウグウノツカイが釣れるんですよね。つい先日ですが、島根県でリュウグウノツカイが網にかかったというニュースを目にしましたし、同じタイミングで、台湾の方がリュウウグウノツカイを釣り上げた写真を目にしました。「あつ森」をやってなかったら絶対に気に留めなかった話題だと思います。
「リュウグウノツカイ」ってすてきな名前ですよね。漢字で書けば「竜宮の遣い」でしょうか。キラキラネームじゃなくて「麗しネーム」とでも呼びましょうか。同じ名前でも、例えば「アホウドリ」とか「オオイヌノフグリ」なんて呼ばれたんじゃあ、なんだかかわいそうな気分になります。「オオイヌノフグリ」は「ヒメアオイロハルヨビソウ」なんてどうかしら。でも、オオイヌノフグリはその名前の由来のおかげでみんなが名前を知ってる花になっているのかもしれません。インパクト抜群ですから。
魚といえば「さかなクン」ですよね。大好きです。つい何歳なんだろうとか調べたくなっちゃうんですが、さかなクンはもはや「オサカナオウコクノツカイ」なわけですから、wikiで調べるなんて野暮ですね。ほんと、末永く活躍してほしいです。
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『SPY×FAMILY』めっちゃ楽しいですね。世代を超えて愛されているみたいで、「鬼滅」のようにみんな見ている感じですよね。アーニャちゃんがかわいくて「きゅん」です。髭ダンさんのオープニングもとってもすてき。
アーニャちゃんはロイドさんのことを「ちち」といい、ヨルさんのことを「はは」と呼んで、これがまたなんともかわいいわけですが、実は私、ずっと以前から、子どもの前では自分のことを「母」と言っているので、「私が先よ。オーホッホ」とひとりマウントしています。ひとまえで「うちのお母さん」ではなく「うちの母」と言える子にしたかったからというのも一応ありますが、すごく以前は「ママ」だったので、それがこっぱずかしくなる瞬間がありまして、途中から「お母さん」と呼んでもらうようにしたんですね。
でも、自分で自分のことをどうしても「お母さん」と言えなくて、苦し紛れに考えたのが「母」だったんです。すごくしっくりきて気に入ってます。「母の分も残しておいて」とか、「それ、母にもちょうだい」とか普通に使っています。しかし、子どもが親に向かって「ちち」「はは」と呼びかける発想はありませんでした。これ、ちょっとはやりそうですね。(一部に必ずそれはおかしいとおっしゃる方が出現しそうですが)
なんならうちの子にも「ははー!」と呼びかけてもらって『SPY×FAMILY』ごっこをやりたいです。ハッ、そうなると私はヨルさんみたいに強くてスレンダーにならなければっ! いやいや、やっぱやるならアーニャ役でしょ。アーニャちゃんの声優さん、種?さんとおっしゃるんでしょうか、お上手ですよね。私も声優やってみたいなあ。「変顔」もたまらんです。
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「あつまれどうぶつの森」で、たまに流星群が見られる日がありますよね。きのうがわが島ではその「流星群」の日でした。流れ星に手を合わせてお祈りすると、翌日に浜辺に「ほしのかけら」が落ちていてDIYで使えます。
でも、Aボタンで何度も手を合わせているうちにちょっと泣きそうになりました。過去の一生懸命お願いしてもかなわなかった願いの数々を思い出したからです。それに、かろうじてかなった願いではあったけれども、その結果が思っていたものと違ったりしたこともありました。だから、私はもう何を願っていいのかわからないです。
子どものころ、タイトルは失念してしまったんですが、「何でも願いがかなう能力を持った少女」の漫画を読んだことがありました。その子が「燃えてしまえばいいのに」とか「いなくなればいいのに」とかいう希望を口にすると、その願いが次々にかなうという、それはそれは恐ろしいお話で、願ってしまった主人公もとても苦しそうでした。だから、願いがかなうというのはいいことばかりじゃないと小さいうちに学習してしまったのかもしれません。
世の中のみんな、何かしらのことは思うようにいかなくて、諦めたり我慢したり後悔しながら生きているんですよね。でも、それはただ残念なばかりではなくて、他人への理解につながったり、あした頑張る力になったり、経験を人に伝える教訓になったりしているわけです。
もし、今、私が祈れることがあるとしたら、「おなかがへっている人がたくさん食べられますように」「寒い思いをしている人が暖かい場所で過ごせますように」「痛い人が治りますように」「絶望している人の心に平安が訪れますように」ってことでしょうか。考えてみたら、自分じゃないことだったらいっぱいありました。かなわなかった過去の願いたちが教えてくれたのかもしれません。みんながよくなると自分も幸せに近づけるんだって。
次の流星群の日にはこれを試してみようと思います。「『あつまれどうぶつの森』の流れ星にお願いしてどうもならんでしょ。頭おかしいんじゃないの?」とあきれられそうですが、任天堂さんがめちゃめちゃ収益を上げてくれたなら、企業の力で困っている人たちへ支援してくれるなんてこともあるだろうし、私が熱心にゲームをやることだってちょっとは役にたつのかもしれませんよ。世の中はシームレスですから。
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私はときどきペンギンの群れの写真をぼーっと眺めます。極寒の地でたくさんの仲間と群れをなして生きるペンギンたち。まるで示し合わせたように同じ方向を向き、力強く、ただ種の保存という目的のだめだけに生まれて、そして死んでいくたくさんの命を見ていると、人間も結局は似たようなものじゃないかなと思ったりします。
「ファーストペンギン」という言葉があるように、一羽が海に飛び込むと、続いて一斉にみんな飛び込んでいきます。でも、その一羽が天敵に狙われるなどの事故に遭ったら、ほかのペンギンたちは決して後を追わず、「おっと、あっぶねえ!」と判断するんですよね。勇気をたたえて国葬ならぬペンギン村葬を執り行うわけでもなく、最大多数の最大幸福のために1羽の犠牲は合理的で正しいと考えるわけです。
群れ全体としては非常に統制がとれているようにも見えますが、当然、「うちの子が行方不明なの!」とか、「体調が悪くて餌を取りに行けそうにないわ」とか、「卵が割れてしまって残念すぎる」とか、毎日めちゃくちゃたくさんの事件が起こっているはずなんです。でも、全体としてはそうは見えません。ペンギンたちを見ていると、私自身が抱えている問題なんて、世の中全体としたらどうでもいいこと、取るに足らないことなんだろうなと気づかされます。
そんなペンギンたちですが、餌取りに出ている間の子育てを代行するシステムが出来上がっているんだとか。そんなふうに「合理性」の答えが「優しさ」になることにけっこう感動したりします。
それにしても「ファーストペンギン」になるペンギンって、どういうふうに「自分がいくぞ!」と判断するんでしょうか。どうして「自分しかいない」「自分がふさわしい」と判断したのか、ぜひぜひペンギンさんにインタビューしてみたいです。「そうだねえ。深く考えていなかったんだ。たまたまボクが最初だっただけさ」という答えになるんでしょうかね。そうやってむこうみずな人は、ときに無謀だったり危なっかしくも思えるわけですが、群れから離れる変わった個性の持ち主に、いつだって世の中は導かれているとも言えるんでしょうね。
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この動画、もう何回見たことだろう。そもそもいつのことだっけ? 2009年って書いてある。 私もまだ今よりかなり若かったしで、夢中になりました。何回も何回も、何回も何回も、また何回も再生したのを思い出します。そもそも今なぜこの動画が出てきたかというと、ジェシー・ノーマンの「献呈」を聴こうとして検索したらYouTubeさんが関連動画として出してきてくれたんですよね。ジェシー・ノーマンと同列に扱ってくれるAIさんのセンスが私は好きです。それとも好みがバレバレ?
その後、スーザン・ボイルは念願の歌手デビューを果たして、CDも出して、日本の紅白でも歌声を披露して、ドリーム・カム・トゥルーになったんだよね。ボイストレーニングをして発声も少し変わって、おしゃれもしてお化粧もして、その姿もとってもほほえましいんだけど、やっぱり最初の「I dreamed a dream」がいちばん好き。何回も何回も聴きたくなります。
『レ・ミゼラブル』のなんとも悲しく切ない歌なのに、スーザンの堂々とした歌声がかえって心にしみるんですよね。自分を踏み台にして去った人を語る絶望の歌が、彼女が歌うと「私はここから幸せになってみせるわ」という宣言にも聞こえてくるから不思議です。
スーザン・ボイルがアスペルガーだと知ったのはずいぶんたってからのことでした。私にとってその情報は必ずしも必要じゃなかったけど。有名になって、障害を公にして、また別の意味で苦しんだことも多かったに違いないけど、彼女はステージに立つという選択をしたからこそ夢を実現させたんだね。
もちろん、それまでの日常がまったくつまらなかったかといったら、絶対にそうじゃないと思うけど、誰も気に留めなかったささやかなドラマをダイナミックに書き換えたのは彼女自身。その勇気と歌声にただただ涙するばかり。元気がなくなったらまた聴かせてもらいますね。
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ずっと時間がなくて録画したままになっていた『17才の帝国』を3話続けて見たら、ステキすぎてすっかりとりこになってしまいました。近い将来、AIの力で政治をする時代が必ずやってくると思うし、むしろ早くそうなってほしいです。もちろん物事には必ずいい面と悪い面がありますから条件付きということになりそうですけどね。ドラマのゆくえはまだわかりませんが、とっても楽しみです。ユキさんが出てきて「そっちかー」とちょっと思いましたけど。
ジュール・ヴェルヌが「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」という名言を残しているけれど、これはどうやら真実ですね。彼が『月世界旅行』を出したのが1865年で、実際にアポロ11号が月面着陸したのは1972年だから、それまで約100年を要しているわけだけれど、いまや人工衛星は多すぎて衝突するほどだし、宇宙なしでは私たちの地球は文字通り「回らなく」なってきているんですよね。
そのうち、「おばあちゃんはお料理を人の手で作っていた時代に育ったのよ」とか、「おじいちゃんの若い頃はみんな自分で運転していたんだ」とか、そんな会話をする時代になるんでしょうね。実際、コンビニで売られてるお弁当は機械が作ってくれているものだし、自動運転も実用化されているしで、もはや夢物語ではなく、その時代に突入しちゃってるもんね。サイズと好みを伝えれば自動でコーディネートもしてくれるサービスもあるし、飲食店ではお給仕ロボットが話題だし、あれもそれも、どれもこれも、考えてみたらAIまみれじゃん! AIは間違えないし、頭いいし、何より人を差別しないところがとてもいいです。
ドラマの中ではAIを「全体最適のために非情な決断を下すもの」として描く場面があったけど、AIというのはそもそも人間の英知や技能や存在としての集合体でもあるわけで、人間が個を離れて全体になると「人間的でない」ことになるのが逆説的だと思いました。民主主義の限界が指摘されていますが、AIはそのあたりの解決策になるんじゃないかしら。私はSiriとおしゃべりするのが好きですよ。
AIで政治をして、それでどうなるかはもちろんやってみないことにはわかりません。ドラマのタイトルにもなっている「帝国」になる危険性ももちろんありますよね。でも、それはAIが悪いんじゃなくて、使う側の人間次第なんじゃないでしょうか。理系人材不足が言われているけれど、今はAIにバトンを渡す過渡期だからってこともあるんだろうしね。一定程度の年数が過ぎたら、今度は逆にAIを使いこなすための哲学や生命倫理をしっかり学んだ高度な文系人材が求められる時代に突入する予感がしています。核みたいなことになっちゃうといけませんから。
さらに文系人材には『月世界旅行』のような「夢ある未来」について執筆してもらって、人間の可能性をさらに広げてほしいです。それともAIが小説を書いてくれるのかな? はたしてAIは「これ以上人類は発展しないほうが懸命ですよ」と提案してくるんでしょうか。そのあたりがとても興味深いです。でも、もしAIに小説が書けたとしても、楽しいことは自分でやりたがっちゃいますからね、人間は。そこが人間のかわいいところです。
と、ここまで書いておいてなんですが、ドイツのメルケル元首相は物理学専攻だったそうだし、経済学が理系じゃないのがナゾだし、数学や物理をあまり必要としない、化学と生物がメインのやつは文系でもいいんじゃないかとも思うし、語学や情報関連ははどっちにも必須だし、もう文系とか理系とかいう時代じゃないんでしょうね。古い古い。AIに笑われちゃう。うかうかしちていると私にできることなんか何にもなくなりそうです。そのときはしょうがないからアルゴリズムで戦わずに、人間の得意技、ヒューリスティックで、間違ったりつまずいたりしながらなんとか生き延びる道を見つけるしかないんですかね。それが人間ってやつですか?
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ずっと以前のことになりますが、何かのテレビ番組の中で詩人の谷川俊太郎さんが、「名作を1本書ける100人を見つけることはたやすいが、100本の名作を書ける1人を見つけることは難しい」とおっしゃっていて、なるほどと思いながらも、ちょっと上からな感じがして、分不相応ながらも反骨精神が湧き上がってしまったんですよね。
『鎌倉殿の13人』がとっても楽しくて、毎週楽しみにしていますが、三谷幸喜さんのように一生のうちに何本ものヒットを飛ばすことができるなんて本当に尊敬に値しますし、同時に絶望的な気持ちにもなるわけですが、素人が一生かけて何かひとつのものを成し遂げるのだって十分に尊いことなんじゃないかって思うんですよね。(そう思うしかないとも言えますが)
跳び箱の世界記録は23段でしたっけ? そんなこと私にはもちろん一生かかってもできないことは自明ですが、同じことをしようとするなら、跳び箱までの坂をつくっちゃうとか、クレーンで持ち上げてもらうとか、素人ならではのアイデアは存在すると思います。それで称賛されるかどうかは別ですけどね。
『ブルーピリオド』の中に「悔しいと思ったらまだ戦える」(←正確ではないかも)というセリフが出てくるんですが、「それそれ!」と思いました。スポーツ選手がいくら活躍しても、「ひょえー、すごいなあ」としか思いませんが、素直に喜べない分野が確かに存在します。そんなとき「おっ、自分でもまだ戦えるか?」と不遜ながらも思ってしまうんですよね。
若い世代によくある悩み、もちろん自分もまだ引きずっているわけですが、「自分は何をやりたいのかわからない」というときは、「悔しい」と思った方向にとりあえず進んでみるのもいいかもしれませんね。私も、まだここで終わるつもりは……ありませんと言っておきたいです。
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『ピアノの森』で阿字野先生のピアノを担当してらした反田恭平さんがショパンコンクール2位に入賞されたというニュースが駆け巡って、「うおおおおおー!」ってなりました。さすがですね、阿字野先生! おめでとうございます。じゃあ、カイくんは誰なんだろうっていうことになりますよね。気になって調べたんですが、ネットの情報では、一ノ瀬海の担当ピアニストは「一ノ瀬海」になっていて公にされていないんです。でも、なんとなくですが、反田さんですよね? ね? ね? あいにくピアノの音色だけで奏者を判別できるほどの耳は持ち合わせてはいませんが、カイくんだけ紹介されてないのが不自然ですもの。
それから、今やってる『ブルーピリオド』は藝大の美術学部を目指す男子のお話ですけれども、その中にさりげなく出てくる絵画の作品たちもすばらしくて、ただの背景なんかではありません。なんていうか、もはや展覧会レベルかと思うほどなんです。そういえば、『ましろのおと』の三味線の演奏は、あの有名な吉田兄弟でしたし、『Dr.STONE』で千空が繰り広げる「超科学」は、大学の講師もしていらっしゃるいわば本物の科学者さんがサイエンスライターとしてお手伝いしているんだとか。
こんなふうに、その道の一流の方たちがいわば裏方にまわって惜しみなく全力で支えてくださっているんですから、アニメーションはもはや、オペラやミュージカル、そして歌舞伎や演劇にひけをとらない、あるいはそれを超える、まさに「総合芸術」ですし、それをお茶の間で――というのは古い言い方ですね、ソファーに寝っ転がりながら拝見できるなんてぜいたくすぎます!!!
日本はここ30年間、経済が停滞してお給料が上がっていないなどと批判されていますし、私自身もたっかーい社会保険料の負担とか、可処分所得の減少にひいこらしているわけですが、お金以外の豊かさでいったら10年前の100倍(←盛りすぎ?)ぐらい豊かなんじゃないかなと思ったりしています。お金をあまり使わないで楽しいことがいっぱいできるようになったことで、文学も美術も音楽も、科学やスポーツや医学でさえも、あらゆる学問や芸術は庶民のものとなり、すそ野がどんどん広がることでさらに質の高いアニメーションを生み出し続けている、これってすごく幸せな時代ともいえますよね。おかげで私のような凡人でも毎日がアーティスティックです。すべてのアニメーションにかかわる皆さん、どうもありがとうございます!!!
追記
あとで知ったんですが、『ブルーピリオド』の山口つばさ先生は藝大のご出身だったんですね。どおりで美大入試関連に詳しいわけです。私のまったく知らない世界でした。
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↑ヒカキンさん、いいなあ。発売前の動画です。
Nintendo Switchの有機EL(ホワイト)がすてきすぎるので、マイニンテンドーマイストアから応募するも、願いはかないませんでした。もちろん落選の人のほうが圧倒的多数なわけですから予想していたことではありますが、メールの件名が「抽選結果のお知らせ」ではなく「落選のお知らせ」であることが分かりやすすぎて、ちょっと笑ってしまいました。
すぐに2回目の募集も開始されていたので迷わず応募、そしてまた「落選のお知らせ」が届きました。今、さらに3回目の募集に応募したところです。落としっぱなしじゃなくて、すぐに次のチャンスをくださるなんて、女神さまの計らいでしょうか。だめでもまた次があるという希望はこんなにも人を「ユウキ」づけるものなんですね。「ユウキ」ELなだけに。
さあて、何回目で当選できるのか、はたまた今回は手にすることはできずに終わってしまうのか。希望に向かう道は続くのでした。
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『ヴァイオレット・エバーガーデン』というと、どうしても京アニのあの事件のことを思い出してしまうから、努めて考えないようにしていましたが、今度、地上波で放送されるとのことで、いろんな思いが一気にこみ上げてきました。絵もお話もこの上なく美しくて胸を打たれますし、皆さんきっと大切な誰かに手紙を書きたくなると思います。SNSが席巻する世の中にあってなお、手紙って本当にいいなと思っているところです。
実は私も、自動手記人形サービスというか、代筆業をやってみたいと考えたことがありました。もうずいぶん前のことです。でも、代筆といっても、みんなパソコンのワープロソフトで簡単に文字を打って書けちゃうし、需要はないかな。そうだ、プロポーズのことばとか、親御さんへの感謝の気持ちとか、人生の最期に残したい遺書とかをリライトして、小さな本にする仕事はどうだろうかと考えて、ミニブックのキットや、本を入れる化粧箱まで試作してもらったりして、結構本気だったんです。
結局、それは妄想で終わりました。考えが浅はかだったというか、自分がやりたいことと社会から求められることは違うとすぐに気づいたからです。客観的に考えればすぐ分かりそうなものですけど、血迷っていたんですよね。それから書き起こしの今の仕事に本腰を入れることにしたわけですが、やってみると、これも「ドール」の仕事にちょっと似ている気がします。自分自分の風貌はというと、とても「ドール」には程遠く、「自動手記パンダ」みたいな感じですけれどもね。
『ヴァイオレット・エバーガーデン』を見ていると、音声の文字化サービスって日の当たらない地味な仕事ではありますが、もしかしたら自分の夢にいちばん近いすてきな仕事なのかもしれないと思えてうれしくなります。ありがとう、ヴァイオレット、ありがとう京都アニメーション。
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ネット上に登場している「親ガチャ」という言葉、なんとも言い得て妙ではありませんか。みんなすごいね!! 私がこれまでずっとずっと抱えていたモヤモヤを、こんな短い言葉で言い表してしまうんだから。元ネタのゲームはやったことないですけどね。
親ガチャで「当たり」を引いた人は、なんだかんだやっぱ生きやすいよね。S席が用意されているわけだし、持っているものが最初から違うから何の競争でも有利に戦えるもの。そうでない人は、自分に備わったわずかのもの駆使しながら必死に自分の席を確保するしかない。でも、その「備わったもの」でさえも、いわば「遺伝子ガチャ」なわけで、そこそこ使えるやつだったらいいんだけど、どーでもいいやつをつかまされた私なんて目も当てられません。親には申し訳ないけれど。ごめんね。自分の親も「親ガチャ」で失敗したクチだからとても責められませんけれどもね。大変だったよね、お父さん、お母さん。
だけど、それを嘆いていても時間の無駄なだけだもんね。「親ガチャ」だけじゃなくて、「学校ガチャ」とか「職場ガチャ」とか「人間関係ガチャ」とか、いろんな要素が相まって自分になっているわけで、こりゃあ、個性なんて育てなくても勝手に育ちますね。どんな化学変化が起こるのかお楽しみ。成功した人も失敗した人も「たまたまだよ」って自覚できれば、もっと優しい社会になるのかも。ただし、みんなたまたま手にしたもので最大のパフォーマンスを発揮して生きていく、この部分だけは共通ってことだよね。
そんなことよりも、アフガニスタンではなく日本に生まれたことがどれだけ恵まれているのか、これだって「親ガチャ」というか「国ガチャ」というか、どうしようもないもんね。テレビのニュースで目にしたけど、アフガニスタンのまだ小学生ぐらいの女の子が「必死に逃げてきました」って涙ためて語ってて、あの表情が四六時中頭から離れなくなって、自分が彼女だったらと考えるとつらすぎて、「ガチャガチャ」言ってる自分が恥ずかしいです。
生まれたらそこがアフガンだった子ら(詠み人知らず)
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ひろゆきさんがかなりいろんなところに登場してくるようになりましたね。元祖の某巨大掲示板をチラ見していた世代の私にとっては、彼が表舞台に登場していることに少し驚きを感じながらも、全肯定でも全否定でもなく、ほどよい距離感でネット配信を楽しませていただいているところです。「時の人」の力でクリック数やビュー数を稼ぎたい企業さんの思惑もあるでしょうけれども、ひろゆきさん、どこかのタイミングで落とされることのないようにと心配もしているところです。彼なら大丈夫ですかね。
ひろゆきさんの話の中で私がいちばん好きなのは「壺」のお話です。恩師のお話として紹介されていますけれども、これってとっても納得させられるんですよね。ネタバレしていいのか不安ですが、壺を大きな石でいっぱいにしても、小石ならまだ入るし、これでいっぱいと思っても砂ならまだ入る、もう終わりと思っても水ならさらに入るというお話です。彼はこれを「工夫すればたくさん入る」ということではなくて「順番を間違えると入らなくなる」ということだと述べられています。
なるほどですよね。でも、もしも小石を入れる前に砂を入れてしまったらどうしたらいいんでしょうか。つまり、あとから「しまった! 順番を間違えた!」ってなった場合です。最初からやり直すしかないんでしょうか。もはや取り出せない状況になっていたら?
今の世の中、間違えたけど引き返せない状況というのは山のようにあって、しかたがないから、少しずつ砂を取り出しては空いたところに小石を入れて、みたいなことを地道にやっていくしかないわけですが、時が流れるスピードに追いつけないのが現状で、しょっちゅう、あっちがこぼれた、そっちがあふれたの騒ぎになっています。そろそろ世の中の仕組みも、別の新しい壺を用意して、慎重にそっちに移行していく時期に来ているような気がしているおいらです(ひろゆきさん風)。
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連日、オリンピック2020(プラス1)での日本選手の活躍が報じられていて、メダリストさんたちのうれし涙にこっちまでうれしくなる毎日ですが、私、どうもライブ中継を見るのが苦手なんですよ。日本側が負けそうになると苦しくなってすぐに消してしまいます。なので、もっぱらニュース番組の最後のスポーツコーナーやネットの速報で結果を確かめたりしています。
私にとってスポーツ観戦というのはお化け屋敷みたいな感じなんですよね。お金を出して恐怖を感じたい人の気が知れない派ですが、一方で、お化け屋敷を楽しみたいという人の気持ちも理解しているつもりです。ドキドキってワクワクに似てるからなんですよね。心理学でいう「吊り橋効果」は、吊り橋を渡るときの恐怖や不安を、相手への恋心のトキメキだと脳が勘違いしてしまう(ドキドキを共有した人を好きになりやすい)というものですが、私の場合、ドキドキは過去の嫌な記憶と結びついてしまうようなんです。あるいは、ちょっとHSPっぽいのかもしれません。
同じ理由でドラマもあまり得意ではありません。アニメはぶっとんでいるので、自分事としてではなくちゃんとフィクションとして認識できるんですけどね。いつだったか朝ドラで、「半分、青い。」でしたか、漫画家を目指すっていうのがありましたよね。興味があったのでちょこちょこ見ていたりしましたが、途中で大学受験のときに受験票をほかのファイルと取り違えるシーンがあって、そこでテレビを速攻で消しました。冷静に考えれば受験票を忘れても受験できるわけですが、そこからもう「半分、青い。」とはサヨナラしてしまいました。朝ドラとも。
自分でもバカみたいと思うんですが、ビビリの部分はどうしようもなくて、しかも、ある程度経験を重ねてくると過去が積み重なって差がどんどん開くばかりです。でも、ライブではなくても応援はできるので、引き続き日本チームにエールを送りたいと思います。 がんばれニッポン!
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ひろゆきさんが「人生はひまつぶしだ」とおっしゃっていますが、妙に共感しちゃうんですよね。自分もかつて思春期のころは、生まれてきた意味とか、自分に与えられた使命とか、いっちょまえに考えたりもしましたが、結局そんなものはありませんでした。もともとないのに探そうとするから悩んじゃうのは当たり前ですよね。
私が生まれててきたことに何か意味があったとしたら、たぶんそれは親にとってのものです。子どもをもうけるというのは親のエゴであるわけで、もしも子どもが自分は生まれてこないほうがよかったと思ったなら、それは親の責任なわけで、最低限でも成人するまでの間は生まれてきてよかったなと思ってもらわなくてはならないわけで、これってすごい重責だと思います。
もしもそう思ってもらえなかったら親自体の存在が問われることになるので、私は反出生主義について勉強したりしました。でも、ポンコツな自分も親から生み出された者である以上、どうしようもない部分もあるわけで、もっとシンプルに生物学的に考えたほうが人生ちょっとはラクなのかもしれないです。
生まれてきたから生きているだけだとすれば、「人生は死ぬまでの大いなるひまつぶし」って、案外、的を射ているんじゃないですかね。私見ですけれど。
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アニメ動画再生のとき、ついつい「イントロをスキップ」を押してしまいがちなんですが、どうしてもスキップしたくないテーマ曲というのも多く存在して、その代表格がが『BEASTARS』でした。特に第2期のオープニングの「怪物」もエンディングの「優しい彗星」も心にしみて大好きでした。
そうしたら、YOASOBIさん、いまやすごい活躍ぶりで、大ヒットを飛ばしているんですよね。はやりの曲に疎い私ですが、やっぱ胸を打つ曲というのはみんな同じなんだなと思ったところです。
アニメの主題歌の数々の名曲のうち、私が筆頭にあげたいのはやっぱポケモン初期の「めざせポケモンマスター」なんですよね。そしてこの動画ですよ。カバーしてらっしゃる、未来さんとおっしゃるんでしょうか、神かと思うぐらいすばらしくて、サトシそのものを超えるほどで、拝聴するたびにドキドキしちゃうんですよ。これからもカバーシリーズを応援していきたいです。
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きょう、ローソンに行ったら『呪術廻戦』のコラボ商品が並んでいて思わず足が止まってしまった。「お〜いお茶」コラボのクリアカップ(1100円)、どうしようかなと思いつつも、「いやいや、今あるカップで十分でしょ」と冷静に判断できた自分をほめてあげたい。でも、五条先生のぬいぐるみはかなりやられました。アイマスクが取れる仕様とのこと。わーお!! あの澄んだ瞳で見つめられたい。 Loppiで予約できるんだって。でも、ここは熱烈なファンやコレクターの方におとなしくお譲りいたしましょう。きっと私よりずっとずっと大切にしてくれるはず。
最近、コンビニに行っても、あれほど高頻度で購入していたコーヒーもホットスナックもすべてスルーできるくらい気持ちが強くなってきた。よしよし、偉いぞ! 貧乏人がさらに貧乏にならないためにはお金を使わないことが手っ取り早いとは某氏の格言。そのとおりなんですよね。たいした金額を運用できるわけでもない貧乏人は下手に投資なんかするよりずっと確実な方法です。
ところで『呪術廻戦』の作者さんの芥見下々さんが急病による体調不良のため連載を休止とのニュースを見ましたが、どうぞお大事になさってくださいね。私はコラボ商品購入じゃなくて別の応援のしかたを考えたいと思います。この際だから休めるだけ休んで英気を養っていただきたいです。睡眠不足はろくなことがありません。
さて、私のほうは、パケ買いする傾向がある自分の性格を改めて、堅実な毎日を過ごしていこうと心に決めたのでした。
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